東は宝積寺通りより、西は三日町通りまで長さ一町五十二間(約二〇三メートル)幅六間(約一一メートル)の通りであった。今でいうと、第二球場と市営小田垣団地の境界のあたりである。文化期における家数は、十一軒であった。
明治四十年以降は練兵場であったが、太平洋戦争の末期頃には、兵力増強のなかで旧本一之丁南側に仮の営舎が立ち、戦後は一時、母子寮に転用されていたこともあった。
・一番丁
東は宝積寺通りより、西は三日町通りまで長さ一町五十二間(約二〇三メートル)幅六間(約一一メートル)の通りであった。今でいうと、第二球場と市営小田垣団地の境界のあたりである。文化期における家数は、十一軒であった。
明治四十年以降は練兵場であったが、太平洋戦争の末期頃には、兵力増強のなかで旧本一之丁南側に仮の営舎が立ち、戦後は一時、母子寮に転用されていたこともあった。