・五軒丁

52 / 184ページ

 東は東照宮・延寿寺の前より、西は外讃岐口郭門に至る少し手前のところで北に折れ、牛沼濠の端に出たところで濠に沿いながら西に向かい、西出丸濠の南岸を通って大町通りに出る、長さ四町四間(約四四三・六メートル)、幅十間(約一八・一メートル)の通りであった。

 加藤氏の代までは、此の地に士屋敷が置かれていた。松平氏時代になって、此の町の東部北側と、西端南側の二ヵ所に倉屋敷が設けられ、士屋敷は五軒になったので、五軒丁と呼ばれるようになったという。ただし、幕末の地図を見ると、六軒の士邸が記載されている。

 この通りの東端、一段高台になったところに、蒲生氏時代に正覚寺があったが、忠郷の代の寛永元年(一六二四)、東照宮が勧請された。『旧事雑考』によると、元和七年(一六二一)十月より土木工事に入り、翌年に造営をみたとある。

 東照宮の南には熊野宮、その南には東照宮の別当延寿寺、熊野宮の東には豊岡神社があった。現在、豊岡墓地になっている区域がこの地にあたる。

 東照宮の少し手前(西)のところで南に折れ、河原新丁に出る口を熊野口といい、ここに熊野口の郭門があった。

 今の秋本産婦人科医院の裏通りが旧五軒丁であるが、この通りには玉川機械金属の社員寮などがあり静かな住宅街をかたちずくっているが、その西端を南に折れたところには、外讃岐門があった。往時、この郭門は平常とざされており、不明口、あるいは不明門と呼ばれた。

 この通りの南側は外郭の土手に沿っており、北側の東部は空き地、中央部には米蔵があった。『家世実紀』正保二年(一六四五)六月二十八日の項に「十八蔵之儀、是迄桜馬場ニ有之候処、此度権現様御宮之後へ(今豊岡御社之地ニ候)引移、御普請致成就候…」とあり、この米倉は〝上倉〟と呼ばれた。西部には士屋敷があったが、西出丸濠の南側にも米蔵があった。これを〝下倉〟と称し、この上下両倉には藩士らに給する祿米が蔵されていた。これが〝十八蔵〟と呼ばれたいわれは、領内十八組分の村々から納められる年貢米を蔵していたからで、米倉が十八棟あったからではない。なお、南町口外濠に架かる橋は、この米倉に近いところから、十八蔵橋と呼ばれた。

 この丁は、現在の町名では城南町と変り、旧五軒丁の道形は全線残っているものの、東部では約六メートル、西部で三メートル位、往時の十八メートル道路とはくらべるべくもない。

(小島)