何時の時代にも、メインストリートに〝大町〟の名を付けたようだ。『塔寺八幡長帳』によると、葦名の時代、弘治二年(一五五六)正月二十五日「…大町馬場以上蔵百ヶ所やけ申候」とあり、黒川城下に〝大町〟が存在し、蔵百ヶ所は少々オーバーかも知れないが、蔵がいくつも建つような商業を営む人々が住んでいたようだ。
康暦元年(一三七九)、葦名直盛が鎌倉から会津に来たとき、従ってきた簗田氏は大町に居住し、京都に行き、将軍足利義満より会津四郡及隣国までの商人の司の許可を得て、領内の行商人を取締り、葦名氏の商業政策を支えており、大町の市祭を始めたという。この時の大町は米代一之丁の地にあったと言われている。
近江国蒲生郡日野出身の蒲生氏郷が会津の領主になり、前任地伊勢の松ヶ島と松坂での城下町建設の経験を生かし、若松でも商業の発展を保護し、城下町繁栄の基礎を作ろうと、文祿元年(一五九二)六月に、諸士の屋敷を郭内に、商工人らを郭外に町割りしたとき、米代の大町も現在地に移された。
郭門大町口より北へ糠塚町までの六町五十四間(約七五二メートル)余、道幅四間(約七メートル)の道を挾んで五十軒の家がある。五之町より北を大町名子屋町という。
大町と東西に通る一之町・七日町との分かれる辻は、札辻と呼ばれ、広報伝達の掲示板が置かれた。
一之町との南角に葦名時代よりの商人司簗田家が、北角に、蒲生の城郭修理や町割りに近江甲賀郡より来住して協力した倉田家がそれぞれ大きな屋敷が与えられて、共に大町組(一之町、二之町、三之町、四之町、道場小路、大町竪町、名子屋町の三五四軒)の検断として、城と町民の間に立って、城御用の馬や人足の準備や、町内の道路、水路、橋、井戸、下水や辻番所・風番所(火の番所)の管理を名主に指図し、城からの令達を町民に知らせ、町民の願いを城へ仲介したり、町に出入りする商人、町人の許可・保護・取締り等の町支配の総てが任され、大町組内の九組に区分された各組の名主と共に町の自治に勤めた。
商人司簗田氏は、会津領の所々に立つ市を主催し、商人仲間に対する絶大な権限が与えられていた。又若松の町の検断たちの中でも上席を占めていた。
氏郷は城下町発展のために六斎市を定め、毎日何処かの町で市が立つようにし、大町は五・十日に市が立ち、毎年一月十日は初市で沢山の人が集った。
毎年一月十日の未明に町々の商家の若者が頭に手拭で鉢巻をしめ、足にワラジをはき、下帯一本の裸で、ヤッサヤッサとかけ声を掛けながら幾群も札辻に集り身体を揉み合う。見物人は自分の家から梯子を持参し、見やすい家の屋根に争って登り、向い屋根上の見物人と罵声を掛け合って待つうちに夜が明ける。すると検断倉田家の屋根の上に、西に向って煤で真黒になった翁面をかぶった男が、右手にすりこ木、左手に破れた渋うちわを持ち、米俵一俵を背負い、他に二人を従えて立ち現われる。翁は俵を降して前に置き、すりこ木と渋うちわを打鳴しては足踏みをしながら両手を四五回上下した後に、力いかというスルメを二、三束蒔き散し、控えている二人が俵の両端を持って高く上下し、三度目に集った裸の群に投げ落す。群集はその俵を引合い、その年の米価を占う。勝負が決れば群衆、見物人は散る。
当日は風車、市飴等の縁起物や手工業品の市店が並び、町々から女性や子供が、在方からも大勢の人々が雪道を歩いて集り、大町の通りの南に春日大明神、北に住吉大明神を祭った仮屋の市神に参り、又、歳徳神に供えられた米が倉田家の屋上で売られ、人々は初稲といって家に買って帰った。
交易形態が常設の店舗で営業するようになり、市が廃れたが、この初市は〝十日市〟として現在も続いているが、〝俵引き〟や〝初稲買い〟等の農業に係る行事は見られない。
寛文六年(一六六六)の『町中之由来』によると、大町組内の職業者は 刀鍛治一、雑鍛冶二十、磨屋三、鞘師二、塗師七十八、銀細工二、革屋二、酒造二十四、桶屋六、畳刺三、紺搔三、米屋十五、材木屋十四、薬種屋三、肴屋七が数えられる。
商取引きが活発になるにつれて、売り買いに必要な升や秤がバラバラであったのを寛文七年(一六六七)統一が進められ、秤の製造専売所である〝秤座〟は、北小路町との南の角に置かれた。
貞享二年(一六八五)の『町風俗習』に書き上げられた大町組の家業商売物は、絹布 繰綿 小間物 弓屋 両替屋 酒屋 薬種 紙 書物 油屋 塩屋 木綿屋 古手(古着)屋 質屋 茶屋 菓子屋 肴屋 巻物 帷子(かたびら、裏が付かない着物) 塗物 表具屋 鞘屋 研屋 仕立物屋 柄巻屋 仕舞物屋(古道具屋) 材木屋 荒物屋 蝋燭屋 麴屋 紙張屋 米屋 豆腐屋 布売 苧売 青物屋 たばこ屋 額彫 印判屋 堅地塗師 渋地塗師 石切 畳屋 大工 鍛冶 椀絵書 桶屋 金具屋 筆屋 紺屋 小挽 馬医 髪結 ふるい屋 犬筥師(玩具のはりこつくり) 合羽屋 唐紙屋 槃目盛 鏡磨 と種々で、当時の大町組には約二千三百余人が住んでいた。
その頃の家屋は木造わら屋根で、普段使用する光熱は出火の危険性が大きく、一旦火が出ると家々が密集しているのですぐ大火になった。藩では火の用心の対策を色々と立てているが、延宝二年(一六七四)二月二十二日、札辻の南に高さ七間(約十二メートル)五層の火の見櫓が築かれ、最上階に警鐘を懸け、郭外の町合同で番人を雇い昼夜火の番をさせた。
蒲生氏が町割りをした当時は、戦いの場合を想定する必要があったのだろう。要所々々の町角を食い違いにし、郭内にあった寺院の大部分を町はずれに足軽町とならんで移し、城下町防衛に境内を利用しようとした。この時大町の北の突き当りに東明寺を、町の西側に弥勒寺・融通寺・実成寺、東側に一桂院・持宝院・誓願寺が移された。
このうち実成寺は、江戸時代時の鐘を撞いていた。『家世実紀』によると明和四年(一七六七)「時の鐘、御城ばかりにては新町辺では聞こえざることあり、それぞれ寺院に打継仰付られ」るとあって、建福寺・蓮台寺は十月二十八日から、実成寺・恵倫寺は十一月十五日より撞始めている。
戊辰戦争では大町組三五三軒のうち全焼六四軒、半焼三一軒、他に寺前の家八軒が罹災した。
西軍の戦死者は東明寺に葬られた。
明治二年六月十五日民政局が廃止され、若松県が設置され、県庁の仮役所が融通寺に置かれた。八月二十七日城中に県庁が移るまで寺で執務された。
戦争が終るとすぐ新政府は、札辻の制札場へ高札を掲げた。
定
一、 人多るもの、五倫道を正しくすべき事。
一、 鰥寡孤独、癈疾のものを憫むべき事。
一、 人を殺し、家を焼き、財を盗む等々之悪業阿るまじく事。
慶応四年三月 大政官
定
何事によら須、与路しからさる事に大勢申合候越、ととう登となへ登とうして禰加ひ事くわたつる越、こう楚といひ、あるひハ申合居町居村をたちのき候越、てうさんと申須、堅く御法度たり。若右類の儀これあらハ、早々其節の役所へ申出辺し、御本う悲下さる辺く事。
慶応四年三月 大政官
定
き里したん邪宗門之儀ハ、堅く御制禁たり。
若不審なるもの有之者其筋の役所へ申出へし、御本うひ下さる辺く事。
慶応四辰年三月 大政官
この高札は大町札辻の他、本六日町角、川原町橋元、南町橋元にも掲示された。
明治十五年福島県令三島通庸が三方道路開鑿に着手した時、その基点は札辻で、三方道路のうち米沢への道路建設の邪魔と、東明寺は現在地に移された。札辻には、明治七年五月に、若松から四方の道路の距離をはかる目印として「道路元標」が建てられたが、明治十七年八月に三方道路が完成し、十月二十七日に開通式が行なわれた。その後札辻に「会津新道碑」(どうひ、銅碑とも書く)が建てられた。この碑は後に七日町阿弥陀寺境内に移されたが、太平洋戦争の時に供出させられ今は無い。
簗田家の南の並びに、明治二十三年渡辺鼎ドクトルが会陽病院を開業した。そこで野口英世は明治二十五年左手指の火傷の手術を受け、医学への目が開け、翌年同院に入門し、伝手を求めて英語・ドイツ語を学び、フランス語は若松カトリック教会に通い神父達より修得した。明治二十八年四月七日、北小路町三十五番地の日本基督教会講議所で、群馬県大間々で、自由民権運動勃興期に政治結社を作り国会開設請願活動をし、後にキリスト教徒になった藤生金六より洗礼を受け、翌年上京して医学の道を着々と歩み初めた。
明治三十二年七月十五日、若松の町民の念願であった鉄道が岩越鉄道株式会社により若松まで開通し、糠塚町の北に若松停車場が出来て鉄道の乗降客により大町の賑わいが倍増した。
大正十年代、三之町角に共栄銀行が営業しており、十一年十二月には一之町の角に郡山商業銀行の支店が開業した。
昭和四十年二月一日第一次住居表示で、北小路町の南角より南の道路の両側は〝中町〟に替ったが、あとは〝大町〟の町名が残った。