・馬場町

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 この町は、馬場町口の郭門から北へ、長さ五町三十間(約六百メートル)余、道幅五間(約九メートル)の道路を挾んで文化期には百十四軒の家があった。葦名の時代に黒川城の西北に犬追物の馬場があり、その馬場に続く町なのでこの名があるが、当時は郭内本一之丁にあったという。

 文祿元年(一五九二)に蒲生氏が町割りをした時、その馬場は城の北東に移され、馬場を囲む北側の土手に桜を植えたので桜ケ馬場と言われ、馬場町は現在の場所に移された。五之町より北、町末の木戸までを馬場名子屋町といった。

 この町の検断は二人で、道の西側で一之町との南角に坂内家、東側で二之町との南角に倉田家があった。

 坂内家の先祖は将軍足利義輝に仕えた安倍大和守実信で、その長男実乗は会津に来て葦名盛氏に仕え、盛氏の命で坂内となり、蒲生氏の城郭修理のとき現在地に宅地を与えられ町年寄りとなった。子孫代々富豪で、領主加藤氏もしばしば坂内家を訪問したという。

 馬場名子屋町にある観音堂は、江戸時代、町検断坂内宗沢の建立したもので、『家世実紀』によると承応二年(一六五三)十二月十六日、宗沢から下屋敷に〝観音〟を本尊とし持仏堂を建て、小坊主一人を置きたいとの願いが出され、藩では町末なので希望に任せる旨の許可を与えたいきさつが記載されている。


馬場町観音堂

 なおこの観音堂は、その後の享保二年(一七一七)、自在院住職覚範らによって創始せられた町(府内)廻り三十三観音の十番札所となり、その御詠歌は次の通りである。

  心をは馬にすえおく武士の
    仏の道に弓も矢もなし

 一方の倉田家も、大町の倉田家と同じ祖先の名家であった。

 当時の家屋、光熱の状況から御多聞にもれず火災が頻発した。他町火元の大火で類焼も多く、この町の火災は享保四年(一七一九)十二月二十日、元文二年(一七三七)三月二十八日、明和六年(一七六九)七月二十三日、安永二年(一七七三)二月三日と、相次ぐ大火に見舞われている。なかでも明和六年の火災では、夜十時頃馬場町与惣兵衛宅より出火したが、丁度其時会津に帰城していた五代藩主容頌は、その日たまたま古川御茶屋に参っておられ、帰城すると間もなくの出火のしらせに早速現場に出馬なされたが、火は段々焼け広がり、下五之町、大町より少し上まで焼け、夜中の二時頃にようやく鎮火、家が六十軒焼失したのを見とどけて帰城、翌日出火の際の消火、防火の手筈を城中に指示なされたと、『家世実紀』には見えている。

 蒲生氏の町割りのとき、毎月一・八の日に市を開くように定められ、人々は商品を市へ持ってゆき、またこれを買ったが、時代がすすみ、領外、領内で商品が仲買いの手によって買い集められるようになると、市はだんだんとすたれてゆき、それに代って店舗が出現し、同業者で仲間が作られ営業を守るようになった。

 馬場町でこの仲間帳に名を連ねた者は、寛永十三年(一六三六)で茶仲間一。寛永十九年(一六四二)紙仲間一、古手(古着)仲間十。寛永二十一年(一六四四)肴仲間六、たばこ仲間一。寛文元年(一六六一)古手仲間六。延宝三年(一六七五)紙仲間二、たばこ仲間一、肴仲間八、町古手仲間十、麻仲間二。延宝六年(一六七八)在郷古手仲間十一。貞享元年(一六八四)鍛治仲間二。元祿十一年(一六九八)鍬仲間二とあり、時代が下って文化期になると、仲間の株を持たぬと商売が出来なくなった。

 寛文六年(一六六六)の『町中之由来』によると、旁出町も含めた馬場町三二三世帯の手工業者数は、刀鍛冶二、磨屋四、鞘師二、塗師二十二、銀細工二、革屋九、酒造十二、蝋燭屋十一、桶屋一、畳刺二、紺掻九、石切二、桧物師十、大工六、土器作二とあり、商人数は米屋四、薬種屋二、肴屋五、青物屋四、乗物屋一、質屋三となっている。

 明治元年(一八六八)、馬場町内で株仲間に加入している者は、塗店一、漆問屋一、田舎出塗商二、菓子屋二、煙草屋五、髪結二、染屋一、質屋一、煮売屋二、乾飩屋四、肴屋四とあり、明治五年、新政府によって株仲間は廃止され、新しい商業組織に変っていった。

 葦名の時代から、蒲生、松平を経て現代まで、馬場町は手工業・商業の町だったのだろう。

 明治五年、馬場一之竪町に若松警察署が設置され、同十一年十二月、通りの東側で一之町との南角に、三階建で洋舘模造の警察署が新築された。工費は千七百七十五円二十六銭であった。この建物は明治四十三年三月、ドーム型の庁舎に建て替えられ、戦後は職業安定所になり、現在はこの敷地に常陽銀行が建っている。


ドーム型時代の旧若松警察署

 常陽銀行の向い、会津信用金庫の場所には大正十年代、福島商業銀行若松支店が営業していた。

 以前、馬場町の北の末は清林寺につきあたり、そこから紫雲寺前通りが西北に折れ、道幅も二間(約三・六メートル)と狭くなる。馬場町が真っ直ぐに開けたのは昭和十四五年のことで、その少し前の昭和十二、三年に、この道は舗装された。

 住居表示替で現在は、道路の東側上五之町の南角迄は馬場町の町名が残ったが、その西側は中央一丁目に、馬場名子屋町の東側は馬場本町、その西側は中央二丁目となった。

(中村とし)