・五之町

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 四之町の北に並行し、東は中六日町の角より、西は大町までの町で、四之町に次ぐ五番目の町なので五之町という。馬場町の東を上五之町、西を下五之町という。

 どちらも道幅は三間(約五・五メートル)で、上五之町の長さは三町二十九間(約三八〇メートル)余で、家数二十二軒。下五之町の長さは二町三十間(約二七三メートル)で、三十九軒の家があった。

 後に、上五之町の甲賀町より東を〝上五ノ町〟、甲賀町より西を〝馬場上五ノ町〟と呼んでいる。

 この馬場上五ノ町の北側に実相寺があり、下五之町の北側には高巖寺がある。

 実相寺は、元徳二年(一三三〇)、葦名氏四天の宿老の一人、富田氏の帰依により、大光禅氏によって、郭内興徳寺の東隣りに建てられ、永正十四年(一五一七)十二月八日に没した葦名盛高はこの寺に葬られたが、文祿の蒲生の町割りで現在地に移された。

 高巖寺は、岌天が文明六年(一四七四)に建立した寺で、大永二年(一五二二)、葦名盛舜が父盛高の位牌をこの寺に安置し、菩提寺としている。また、それから約百年後の寛永四年(一六二七)一月二十三日には、蒲生忠郷をこの寺に葬っている。法名は「見樹院殿得誉玄(元・源)光」である。境内の観音堂は、町廻り三十三の二十九番札所であるが、現在では廃寺となった十六番、二十八番札所も、ここに合併されている。

 この町にお住まいの●●氏宅は、二代前の宮崎喜蔵氏(明治末没)が五ノ町でも大きな糀屋を買求めたもので会津戦争にも焼け残った家だそうである。先代の話ではこの屋敷から井沢酒店(現出光ガソリンスタンド)が良く見えたそうだが、会津戦争の兵火によるものか、あるいは他の火災によるものかは詳でないが、東側の方にはあまり家がなかったようである。

 自在院の参道は、宝暦二年(一七五二)までは当町にあり、現在の●●氏・●●氏宅がこれに当る。

 現在の住居表示では、上五ノ町の道路の南は〝上町〟に、北は〝相生町〟になり、馬場上五ノ町の道路の南は〝馬場町〟、北は〝馬場本町〟に、下五之町の道路の南は〝中央一丁目〟に、北は〝中央二丁目〟に、それぞれ変っている。

(中村とし)

現在の旧五之町