・大工丁

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 甲賀町の南端より東に向って本六日町迄の長さ四十三間(約七八メートル)余、幅三間(約五・五メートル)余の通りで、文化期における家数は八軒であった。工匠等を住まわせたのでこの名がある。

 元和七年(一六二一)に蒲生家老臣より徳川将軍監吏に呈したとみられる秀行・忠郷時代の家臣祿『蒲生家分限帳』(弥勒寺本)によると〝大工〟の身分で二百石取二名、三十石取二十五名の氏名が記されている。当時の領主は武士のみでなく、城内で必要とする工人や職人をも召し抱えていたので、氏郷も城普請の大工を持ち、彼等をこの町に住まわせていたものと思われる。

 昭和の初期、大工町二番地に〝末世福音教会(セブンスデー・アドベンチスト)若松教会〟が建てられた。

 この教会がまだ〝講義所〟といって、下二之町にあった明治三十五年、そこで信仰を得た耶麻郡木幡村舟引(現山都町)出身の矢部喜好は、明治三十八年、日露戦争に召集されたが、「殺すなかれ」のキリストの教えを守って徴兵を忌避し、会津若松区裁判所で軽禁固二ケ月の刑を受けた。この時期に、良心的兵役忌避をしたのは、日本国中で彼一人であった。

 この町の南側中央部、現在の林谷医院の東側から南へ、梅屋敷の通りに出る小路がある。左右に飲食店が立ち並び、通称〝三光町〟の名で呼ばれているが、これは林谷医院の場所に三光館(写真館)があったためで、この小路も正式町名では〝大工町〟分に含まれていた。ただし、蒲生の町割りで大工丁が出来た頃にはこの小路はなかった。

 昭和四十年二月の第一次住居表示替で、この大工町の南側は〝栄町〟となり、北側は昭和四十一年九月に〝上町〟となった。

(中村とし)

現在の旧大工丁