・六日町

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 甲賀町の東に並び、六日町口の郭門を出て北に行く道で、末は上二之町に至る。長さ二町十五間(約二四六メートル)余、道幅五間(約九・一メートル)、文化期における家数は四十九軒であった。

 『新編会津風土記』に本郷村の条下に「永祿四年(一五六一)葦名盛氏此地に城を築しとき、三日町・高田町・六日町など云所ありて、此村も町と称し、市場にて繁栄せし所なり、葦名氏黒川の本城(今の若松なり)に移りしとき、商家も黒川に移り、今府下の本郷町・六日町・三日町は此より移りしと云」とあり、『治家記録』にも伊達政宗治世の天正十八年(一五九〇)三月二十三日の条に「晩六日町へ御出御馬乗ラセラル」とあって、この六日町は黒川城下にあったことは疑う余地もないが、しかし城下のどこにあったかは詳かではない。

 この町の内、大工丁より南が上六日町、北を本六日町と称した。

 『会津鑑』によると、本六日町は長さ南北一町十六間(約一三八メートル)、道幅五間(約九・一メートル)あり、東側の家数は十六軒で裏行二十間(約三六・二メートル)、西側は九軒で裏行は同じ、合計二十五軒。上六日町は長さ四十九間(約八九メートル)あり、東側の家数十二軒、裏行二十間、西側は十軒で裏行は十四間(約二五・三メートル)から二十間(約三六・二メートル)あり合計二十二軒の家数があった。

 町名の由来ともなっていた、月の内六日、十六日、二十六日に開かれていた三斎市は、文化四年(一八〇七)前に廃止となったが、一之町・博労町に続く町並だけに、幕末には四軒の旅籠もあり、商売の盛んな町であった。

 幕末から菓子業を営み、お城に菓子を納めていた小国屋は、昭和三十年代中頃現在地に移ってくるまでは、一之町通りに面して南西角にあった。

 会津戦争時、退却してくる会兵が当店に、「水・水」と水を飲みに寄ることが唯ならぬ様子であったので、危険を感じ、一家は南会津に避難したという。店舗や蔵は焼け残り現在も使用されている。

 恒例の十日市は丁度小国屋の辺からはじまり、この前に市神様が東の入口として祀られ、鉄板の上で焼いて売る粟餅は名物であったという。また〝お天皇さま〟のお祭りも、小国屋からであった。

 昭和十年、郵便局が博労町から小国屋の向いに移ってくる。この郵便局は昭和五十八年上町に移転するまでは、近くの町の大きな道しるべにもなっていた。

 大正末年頃、鳥居町に行く北角に会津館が建ち、松竹映画の専属館であった。開館当時は無声(サイレント)映画で、弁士と楽隊つきであった。やがてトーキーに変り、映画全盛の時代を迎え、大衆娯楽に貢献するところ大であった。

 若松には、明治三十四年に建った栄楽座をはじめとし、映画館は五-六館あったが、お茶の間に居ながらにして映像が楽しめるTVが普及するに伴って、映画は少しづつ観客を減らしていき、とうとう昭和三十九年、会津館も閉館となった。

 同じ並びに、洋画専門のニューパレスが昭和三十年代に建てられたが、これは間もなくの火災で、閉館している。

 大工町に入る左角に、いと丹小間物店がある。今は閉めてしまったが、開店当時は、若松にはかつてないモダンな造りとそのショーウインドウは市民の注目を集めたものであったが、今でもその名残りは感じさせられる。

 昭和四十一年、本六日町は〝上町〟に、上六日町は通りを境にして東側が〝宮町〟に、西側は〝栄町〟にと、三つに分断された。

(治田)

現在の旧六日町