槻町に並行する東西の道で、東は千石町の木戸より西は甲賀町までの、長さ四町四十一間(約五一〇メートル)余、幅四間(約七メートル)余の道で、家数は八十五軒であった。町の名は、三々の日に市が立ったので名付けられたという。
この町は、横三日町と同じく、大沼郡本郷村三日町より移ったといわれている。
永祿四年(一五六一)、葦名盛氏が向羽黒山に隠居城を築いた時、三日町は向羽黒山の西麓にあり、商家があったという。三日に市が立てられていたので、この名がつけられたと思われる。
天正(一五七三-九二)年間、盛氏が黒川城に帰った時に三日町の商家も黒川城下に移され、蒲生氏の町割りで現在地に移されて、「魚塩交易の利を通ずるため」に三々の日に市場を開くことを定められ、横三日町と一年交代で毎月三日、十三日、二十三日に市が立てられた。
この町の様子もよくは判らない。断片的だが、古文書類からこの町の記事を拾ってみると、
寛永十三年(一六三六)、茶を商う者が三人居た。
延宝三年(一六七五)、茶一人、紙二人、たばこ一人が商売をしている。
元祿十一年(一六九八)、九人が酒造りをしている。元祿時代には、このほかにも刀鞘を塗る職人がいた。
貞享二年(一六八五)の町名主は須田新兵衛が勤めていた。
此の町の中程より西の南側に、馬尾坂という小さな坂がある。『会津鑑』によると、この坂の名の由来は、領主加藤嘉明の代に、朝鮮の役で連れてこられた人達がここに住み、馬の尾で篩地を織るのを職業とし、この場所に馬の尾を捨てていたので〝馬尾坂〟の名がついたという。
また『家世実紀』によると、延享二年(一七四五)四月三日朝五時過ぎ頃、鍛冶職佐兵衛家より出火、竪三日町より横三日町、槻町へと焼け広がり、二十八軒が焼失、五軒半焼、七軒が剝家となる火災があり、さらに安永二年(一七七三)には千数百戸が焼失するという大火があった。
六月五日の午後二時頃のことである。この町より出火し、日照り続きで乾ききった上に、折りからの東風にあおられて火は忽ち燃え広がり、新町分二百十五軒、甲賀町・博労町分七十八軒、大町分三百三十八軒、後町分七百三十九軒、馬場町分二百四十六軒、西黒川分二十八軒、外に宿屋敷・講所・奉行人屋敷四軒、寺二十ケ寺、高札場、火見櫓、土蔵二十六棟、辻番所二十二ケ所が灰になり、その外半焼二軒、破壊した家二十四軒という大火となり、その上、大町三之町の酒屋半兵衛は、酒蔵の防火をしていて焼死した。
弘化二年(一八四五)、この町に旅籠が二軒あった。
蒲生が町割りを実施してから、あと数年で四百年になるが、この間、町の様子が一変するというような大きな変化は無かったようである。
大正五年四月一日、寺町真龍寺の河井臥龍師が、大正天皇の御大典記念事業として設立発起した私立会津保育園が開園した。場所はビックサムソン向いの新城酒店の処で、保育園という名称だが内容は幼稚園で、間もなく行仁小学校の向いに移転し、後に白梅幼稚園・東行仁幼稚園となった。
この町の、博労町より西を、何時の頃からか〝上一之町〟と呼ぶようになったが、この上一之町の北側には津島天皇社がある。素戔鳴尊を祀り、祭礼は七月十五日である。
きうりの神様とか、お天皇様といって庶民から親しまれ、きうりを供えてお詣りすると夏の間疫病にかからないと信じられ、お天皇様に供えてからでないと食べられなかった。
かつては、供えられたきうりは拝殿に山と積まれ、うしろの方から取崩しては神社の入り口で参詣人に売っていた。しかし今では昔の面影はなく、それでも三百本位はあげられるという。祭礼当日は甲賀町通りの一部を歩行者天国にして樽神輿が出たり、福引などもあって大変賑わっている。
この町の旧家に、山形屋油店がある。葦名時代に創業し、五百年続く老舗であるそうで代々長十郎を襲名しておられる。創業当時はなにを商われていたかわからないが、その後は鬢付油や絵ローソクを製造販売し、絵ローソクがまったく省りみられなくなった時代もあったが、その時でさえも他商品の卸業のかたわら、今日まで、技術保存をはかってこられたという。
新住居表示によって、中六日町より東部が〝行仁町〟に、西部が〝上町〟になり、〝竪三日町〟の名は消えた。