博労町の東に並び、南は本郷町より北は滝沢町組町に至る長さ四町二十七間(約四八六メートル)、幅四間(七・三メートル)の道で、家数は九十九軒あった。
町名の由来は、『若松風俗帳』にも「名義相分らず」とあるように、目を通した限りでの文書中には見当らなかった。
この町の北の末にある、現在の大須賀商店の北境の川は、昔も今も道路を横切って流れているが、この川には石橋が架けてあって、橋の南に木戸が設けられていた。
木戸から滝沢に抜ける宝昌寺の前の通りは、文政(一八一八-三〇)頃までは一間(約一・八メートル)足らずの作場道であった。『嘉永・安政年間覚書』によると、この中六日町は五組に分かれ〝東六日町〟とも書いている。
ところで延享元年(一七四四)三月九日、この東六日町が火元になる大火があった。
『家世実紀』によると、この日の夜半十二時頃、宇右衛門という者の家から火が出、折りからの東南の烈風にあおられて火は忽ちのうちに広がり、新町七十二軒半、甲賀町・博労町分百六十八軒、馬場町分百五十五軒半、大町分百八十軒、後町分五十軒、両黒川分二軒、本門前二十四軒、滝沢糠塚の足軽屋敷二十五軒、大町弥勒寺・一桂院・持宝院・誓願寺・融通寺・本行寺・実成寺・東明寺・本光寺、馬場町末東雲寺・紫雲寺・万福寺、五之町自在院・高巖寺・実相寺、甲賀町末知光寺・妙法寺・久福寺、道場小路観音寺、後之分泉明院・円福寺・威徳院、糠塚松円寺、計二十三ケ寺、馬場町観音堂一ケ所、都合七百一軒、この外に土蔵二十四、辻番十三ケ所、木戸五ケ所が焼失した。藩では非常の災害のため、米千三百九十一俵二斗、金五十両二分、材木四万二千百七本を救助のために下げ渡したが、火元となった宇右衛門は、御仕置のために屋敷を没収された。
『新町諸品之覚書』によると、加藤明成時代に、博労町と一年交代に新市が設けられたとあるが、内容の記述がないので良くわからない。しかしこの市は、十年程すると博労町ばかりに市が立つようになって、中六日町には木売りどもが来なくなってしまった。博労町に馬市が開かれている間は、この町にも木市が立っていたとあるので、新市というのはあるいは木市のことを指しているのかもしれない。
十二月二十六日には、暮れの市が開かれている。
天明七年(一七八七)七月、当町に馬市が仰付けられ、野伏町と五軒町の間にある空屋敷へ江戸角力がかけられたという。『日暮延命物語』によると、一行は東・鷲ケ浜、西・谷風、年寄・伊勢ノ海の一行であった。谷風は晴れの場所で手合せした相撲の数は二千七百六十四番におよび、そのうち負けをとったのはただの四番だけという名力士であった。寛政三年(一七九一)八月に馬市が立ったときも、大坂からよんだ曲馬団が大いに当り、入場できずに帰る人もたくさん出て、予定よりも三日間延長したという。
五ノ組には八角神社の下屋敷があった。ここは、古来祭礼のとき神輿を担ぎ出した所である。右のことから無役であったが、いつの頃からか町役をつとめるようになった。貞享二年(一六八五)には、八角神社の貸屋二軒があった。
この町には、創業八百年を誇る老舗、五郎兵衛飴本店があった。代々五郎兵衛を襲名し、当主は三十九代目であるが、昭和三十年代後半、行仁町に移られた。同家には、蒲生氏より賜わった焼印の板二枚が現存する。
昔から、古い飴ほど滋養になると言い伝えられ、藩主に献上する飴は一年前に吟味して作り、ねかせておいたものだったそうである。会津戦争時、白虎隊出陣の際には大須賀氏と共に食事の用意をし、腹拵えをさせたと伝えられている。
大須賀氏は、木戸際の東側において天保元年(一八三〇)から、味噌・醬油・質屋を営んでおられた古い家柄で、当主で六代目である。
大須賀氏の三軒南には、検断鈴木八兵衛の屋敷があり、その南隣りには光明院があって寺子屋を開いていた。
木戸際の西側には宝暦(一七五一-六三)以前から操業を続け、酒造・醬油・糀を商う現宮原糀店がある。当主で九代目になられる。
この並びには酒屋が多く、医師安藤庵の名も見える。又、木戸の外に続く通りには、銭湯・豆腐屋・古道具屋・煙草屋などの商店が並んでいたが、これらの人達は百姓の取扱いを受けていた。この附近になると、町方というよりも、むしろ近郷近在の人々のための商店街として栄えていたのであろう。
明治八年には堀江町が編入され、その後滝沢組町も編入されたが、この町が博労町同様街が少しずつ様変りしていったのは、交通事情の変化、特に鉄道の開通が大きな要因ではなかったかと思う。
昭和四十一年、北端は蚕養町・中六日町の通りを境にして、五軒町の通りから北の東側は〝旭町〟、西側は〝相生町〟に、南の方は東側が〝行仁町〟、西側は〝上町〟となって中六日町の名は消えた。