・中六日町横丁

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 野伏町の北に並び、東西一町四十八間(約一九七メートル)余幅三間(約五・五メートル)の道で、家数が五軒であるところから、五軒町とも呼ばれた。

 町名の通り、中六日町の旁出町で、南側は満福寺の境内で住居はなく、北側にだけ住居がある町で、明治初年の一時期軒数の増えたこともあったが、近年まで五軒しかなく、中六日町横丁などとは呼ばずに〝五軒町〟の俗称で呼ばれることの方が多かったようである。

 また昔には、〝弓町〟ともいったらしいが、隣町の野伏町には弓足軽が多く居住しており、あるいはこの町にも弓足軽たちの住んでいたことは考えられる。そんなことから弓町とも呼ばれたのであろう。

 町の長さについては、『会津鑑』、『若松風俗帳』などでは二十四間(約四三・四メートル)余と書いて、『新編会津風土記』の記載とはかなりの違いをみせている。しかし、いずれも家数だけは五軒と書いている。

 満福寺境内の東西の長さは二十四間と記録されており、明治三十二年の陸軍省測量図では、寺の境内の長さと当町地番割りの長さを同一にしているところをみると、二十四間余というのは当町の長さを示し、『新編会津風土記』の方は、東の木戸までの通りの長さを示したものと考えられる。

 蒲生氏郷入封の頃に僧秀連開基の真言宗知意山満福寺があった。自在院の末寺で明治中頃自在院に合併されたが、しばらく尼僧が住んでいた。

 文化四年(一八〇七)の頃には工商の者が居住していた。その中に刀匠中條道辰がいる。その祖は元祿十四年、京都在住の伊賀守金道に就いて奥秘を極め、自ら鍛えた太刀を朝廷に献じて若狭守に任ぜられた人で、帰郷後は月俸を与えられて家中に列せられた。その後代々道辰を継承し、六代目は明治八年に没している。

 いつ頃設置されたかは不明だが、昭和初期頃すでに、満福寺境内道路際に消防第三分団のポンプ車庫と、火の見櫓があった。町内のシンボルとして長い間親しまれ、安心感を与えてきたが、四~五年前に火の見櫓は取り払われ、消防屯所は行仁町のコミュニティセンターに移された。

 昭和四十一年、通りを境にして南側は〝行仁町〟、北側は〝旭町〟になった。

(治田)

旧中六日町横町(五軒町)の現在