東黒川蚕養宮村八角分の民居で、中六日町横丁の北に並び、東は行人町より西は中六日町に至る長さ一町十間(約一二七メートル)、幅四間(約七・三メートル)の道で、家数は三十一軒の年貢地(村分)であった。
寛永十八年(一六四一)に加藤明成の家臣山城守堀江兵右衛門(式部)という人が当地を拝領し本郷町から町を引移して遊女町にしたもので、故に堀江町という。と、これが一般の定説として用いられている。だがこれを否定するような資料もある。それは太夫桜の伝説である。
飯盛山にある白虎隊記念館の北側に、桜の古木があり、その根本には文化十年(一八一三)、沢田名垂によって建てられた面影碑がある。この碑文や『会陽古代鐘銘』によると「蒲生忠郷郷時代の頃、堀江町に斎宮太夫という遊女が居た。容色人並優れ、柔和で情深く、茶の湯糸竹(音曲)の道は勿論、敷島の道にも通じ、全盛並びない名妓であった。
寛永三年(一六二六)のことである、この斎宮は滝沢に花見に行っての帰り途で、無頼漢天狗又兵衛の刃にかかって亡くなり、その亡骸は飯盛山の麓に葬られ、桜を植えて墓の標とした(宝昌寺埋葬説もある)。
斎宮には南秀という弟があって、彼は滝沢南岳院の修行僧であったが、姉斎宮の非業の死をいたく悲しみ、師から暇をとりついに仇討ちを果たしたが、この功績は他に類がないということで姉弟の絵姿ができたり、歌にも唄われるようになり、歳月を経るほどに事実無根の単なる物語りとされつつあった。
しかるに今年(文化十年)二月頃、太夫の住んで居たあたりに思案橋と呼ばれる苔むした石橋があり、かなり傾いていたのを野村某の庭に移そうとして人足が引き起こしたところ、所々に文字らしいものが見える。洗って読んでみると、この地に七年間住んでいた太夫の法名と没年月日が標され、菩提を弔うために建てられたものであることがわかった。
これこそ、斎宮太夫の伝説がまぎれもない事実であったことの証拠であると、この度、清風党の主某が是非にと譲り受け、桜の根元に移した。これを見る人は、当時の太夫の人柄をもしのぶよすがに少しはなるだろうと、その由来を標しておく」というものである。
しかし、今ではその碑は見当らず、面影碑も文字は読めなくなっており、新しく刻りなおされた碑が傍に立ち、名木太夫桜が静かに枝を広げている。
もし、この碑に信頼を置くとすれば、堀江町はすでに蒲生時代からあったことになる。そして承応元年(一六五二)六月、保科正之の出した金山を除く領中遊女禁止令によって領内の遊女屋は廃止された。
寛文六年(一六六六)には家数が二十六軒あって、男七十九人、女七十九人、馬一疋、酒屋二軒、穀屋二軒あったが、文化四年(一八〇七)頃には、御家人と職人雑居の町となっている。
会津戦争後、未曽有の混乱の中で、昔、この町は遊女町であったというところから、西軍についてきた人足たちの粗暴な行いから良家の子女を守るために、堀江町に娼家を建てることを許可されたこともあった。
これは、町方役人が民政局に願い出て、十一月に許可になったと、『簗田文書』に記されているが、ほんの一時的なことの筈であったにもかかわらず、他国の周施業者によって越後や関東方面から、約千人の娼婦が当町だけでなく、広く城下に送り込まれるというようなこともあったという。
戦禍のおさまった明治八年頃、この町は中六日町に編入され、昭和四十一年〝旭町〟になった。