三日町口郭門より竪三日町に至るまでの、長さ二町三十四軒(約二八〇メートル)余、幅五間(約九メートル)の南北の通りで、道の両側に五十九軒の家があった。三三の日に市が立てられたので町名になったという。
又この町は、天正三年(一五七五)、葦名盛氏が大沼郡岩崎城より黒川に還った時、本郷の三日町より商家を移したと伝えられている。『新編会津風土記』によると「本郷町端村三日町 本村より辰巳(東南)の方七町にあり、家数十八軒、東西一町、南北二町、山間に住す。西に田圃あり。盛氏城築のとき商家ありし所と云」とあり、黒川に移る以前にすでに〝三日町〟の名があり、この頃から市は立っていたものと思われる。蒲生が町割りと同時に市日を定めた際にも、旧にならって町名に合わせ、三三の日をもって市日にしたのであろう。
横三日町は竪三日町と一年交代で市を立てることに定められていたが、品物の流通形態が〝市〟から固定された店舗での売り買いに変ってくると、同じ品物を商う者が仲間組織をつくるようになり、公的な「商人仲間掟」の前書法度が出来てだんだん商業が成長してゆくようになる。
商人司簗田家に残された「仲間帳」に書かれたこの町の商い店は、延宝三年(一六七五)茶二人、肴店一人、町古手一人、麻三人。元祿十二年(一六九九)打綿一人となっている。
明治元年、この町の職業は薬種一、堺古手一、打綿屋四、真鋳銅問屋一、菓子屋三、煙草屋三、傘屋二、髪結二、染屋二、質屋一、乾飩屋三、醬油屋一、肴屋三となっている。
町の南端に、最近まで東山の方から車川が流れ、西角の家の床下に流れ入り、昭和の初期頃まで水車を廻していた。現在は下水道工事によって導管が入れられ、流れは埋められた。
新住居表示では、槻町の角より南が〝宮町〟に、北が〝行仁町〟になった。