・屋敷町

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 南横町の北に並行し、東は台町より西は横三日町までの東西にのびた町で、町の長さは一町五十五間(約二〇九メートル)余、幅三間(約五・五メートル)余、家数は二十六軒の町であった。

 蒲生の町割りで出来た町で、氏郷の母の屋敷が置かれ、〝御屋敷町〟と呼ばれていたのが町名になった。

 その母は、文祿三年(一五九四)五月十一日、この屋敷において亡くなり、十八日、南青木組小田村の成願寺(宝積寺)に葬られた。陽春という僧が導師を勤め、華鮮盛春大姉と号する。(『会津鑑』には盛春鮮花大姉とある)この九ケ月後、氏郷が亡くなっている。

 『新編会津風土記』によると、その屋敷の用水といわれる井戸が残っており、その井戸は底から石を積み、その石は布によって包まれ、黒漆が塗られてあると記されている。

 この町は、寛永の頃(一六二四-四三)までは武士の屋敷があったが、後に商家の町になった。

 その後の町の様子、変遷等についての記録は見当らないが、明治元年の『諸商売株人別調帳』によると、肴屋一軒、糀屋一軒の営業がみられる。

 昭和四十一年九月一日の第三次新住居表示で、〝宮町〟となった。

(中村とし)

旧屋敷町の現在