愛宕町の東に続き、千石町専福寺前通りまでの、長さ五十八間(約一〇五メートル)余、幅三間(約五・五メートル)余、家数二十五軒を数える町で、蒲生の町割りの出来た頃に阿弥陀堂があったのでこの名が付けられたが、『新編会津風土記』の編纂を開始した享和三年(一八〇三)頃には、その堂は無くなっていた。
中世の町の様子ははっきりしないが、古手(古着)の商売仲間に入っている者が、寛永十九年(一六四二)と寛文元年(一六六一)に各々二名居り、延宝三年(一六七五)に町古手の仲間に一名が名を連ね、延宝六年(一六七八)には在郷古手の仲間に一名が加入している。
明治元年、この町に菓子屋二軒、煙筒屋一軒、煙草屋三軒、他所入古手一軒、肴屋二軒、糀屋一軒あったことが、簗田家に残された文書に記録されている。
昭和四十一年九月一日の新住居表示で、道路を挾んだ南側は〝宮町〟に、北側は〝千石町〟に分けられた。
(中村とし)