・七日(なぬか)町

98 ~ 102 / 184ページ

 大町札辻より西へ行く道で、町末の木戸まで七町十六間(約七九三メートル)、幅四間(約七メートル)で、道路を挾んで百四十九軒あった。

 木戸から先は小黒川分で〝七日町四谷〟といい、長さ一町十二間(約一三一メートル)、幅三間(約五・五メートル)余の道に、二十軒の民家が連っていた。

 木戸の手前に、北小路に出る小路がある。この小路の西側に阿弥陀寺がある。

 町名の由来は、『会津風俗帳』によれば、月々〝七〟の日に市が立ったので〝七日町〟になったという。六斎市になる以前の市である。

 この町は越後街道、米沢街道に続く町なので、旅籠屋が多い。十七世紀中頃、領主にみとめられた旅籠屋は十四軒だったが、弘化二年(一八四五)『旅籠株極帳』では三十軒を数え、明治元年(一八六八)には三十三軒を数える。

 幕末、高田藩定宿清水屋(今の大東相互銀行の場所にあった)は、後に三階建の防火建築で偉容を誇り、沢山の人々が建物を見に集ってきたという。

 また、この頃の代表的な旅館としては、みの屋(現在の鶴川木工所)、川又屋(現在の出光ガソリンスタンド)、ますや(現在の若山園・矢沢つり具店附近)、真船旅館(現在のマフネ薬局)などがあった。

 街道に続く町の特徴として商人も多い。延宝三年(一六七五)の記録では、茶七名、紙五名、たばこ四名、肴三名、町古手(古着)十名、木綿一名、犬箱(玩具)一名、小間物四名、麻二名。三年後の延宝六年(一六七八)には在郷古手(農村向きの古着)を商う者が六十三名住んでおり、元祿十一年(一六九八)には十八名が酒造業の鑑札を受け、百二十二石余を造っている。

 時代が下がって明治元年における商人は、呉服細物(堺)四名、他所入太物二名、砂糖問屋一名、薬種二名、水油二名、江戸出塗商七名、田舎出塗商一名、紙合羽屋六名、真鋳銅問屋一名、こんにゃく屋二名、こんにゃく前売一名、正阿弥商人五名、菓子屋九名、町飴屋二名、煙筒屋二名、煙草屋八名、線香屋一名、茶問屋二名、他所入古手四名、傘屋二名、髪結四名、染屋一名、紅染一名、紅花一名、味噌屋一名、煮売屋一七名、乾飩屋四名、醬油屋一名、肴問屋一名、肴屋九名、糀屋一名の記録がある。

 市内の町の中でも、特に賑わったこの町に、明治初年頃に貸座敷業を営む者が数軒あった。中でも山田楼は、自由民権期、会津自由党結成の大懇親会が開かれたり、三島通庸側に協力した旧会津藩士たちの集団〝帝政党〟が、結成準備会に利用したりしたが、明治三十四年、七日町の北西、町北村藤室に遊廓を作る推進役を果した。

 幕藩時代、町の中央に流れがあり、その南側は武士が、北側は庶民が通ったと町の古老に聞いたが、若しそれが本当なら南側の町人はさぞ不自由な思いをしたろうし、その側の商家は武士だけを相手の商いをしたことになる。道路は「天下の往来」ともいわれ、いかに城下町といえども、その様な区別には疑問が残る。

 町末の木戸は、寛延一揆のときに、一万五千人余の農民によって破られた木戸である。会津藩が、急迫した藩財政の建て直しのために、社倉米を二割りの利息を取って農民に貸付け、年貢とは別に収奪の政策をとろうとしたことに反対する農民は、寛延二年(一七四九)の暮、猪苗代金曲地方の農民を手はじめに、大寺、喜多方、塩川と日増しにふくれ上り、遂に七日町の木戸を破って城下に乱入した。

 『家世実紀』寛延二年十二月二十四日の項によると、「猪苗代之百姓共北方(喜多方)之村々誘立御城下ヘ押来及強訴」、二十五日の項には「百姓共七日町末木戸を押破候ニ付固之物頭鉄砲為打追払」などとあるが、しかし農民は鉄砲組の発砲にもひるまず、一揆は日を追って各地に波及したので、藩では積極派(収奪派)の役人を退役させ、年貢の率を少し下げて収拾、長く苦しい改革の道を歩むことになった。

 そんななかで、城下町にも殖産興業による繁栄への道が考えられるようになり、藩祖保科正之によって寛文四年(一六六四)以来厳禁とされた、歌舞伎役者や浄瑠璃語り、また会津万歳や獅子舞などが領内を歩きまわることがゆるめられるようになった。

 『日暮延命物語』によると、天明七年(一七八七)十一月には江戸大角力の鬼面山・小野川一行が常光寺境内において興行し、大評判をとったという。鬼面山は体重が四十二貫(約一五八キロ)という巨漢力士であった。

 寛政三年(一七九一)正月になると、前年に願い出ていた常光寺境内への歌舞伎人形座の建設が許可になり、二月二十七日は無料で一般に公開され、三月一日からは木戸銭を取って操人形竹田一座の興行が行なわれた。

 その後も江戸の名役者、森田勘弥が来て、「仮名手本忠臣蔵」「糸桜寺町育」「恋女房染分手綱」等を演じて大当りをとり、また江戸角力の興行等が行なわれて城下町の活性化の口火となり、他町にも芝居小屋が建設されるようになった。

 藩政時代、常光寺境内はこのようにして諸興行の中心をなしていたが、維新後も、明治二十六年、寺の東側に若松座が建てられ、大正三年には会津で初めての活動写真も、ここで上映された。


 また明治期、七日町には融通寺町に入る日影町の角に〝おかめ亭〟が、清水屋はき物店の裏には〝一心亭〟という寄席もあり、常光寺境内は盆踊りの場所にもなっていた。

 戊辰戦争後、民政局は商品の流通を盛んにするために市を開くようにし、明治三年六月に毎月の市日と場所を定めたが、七日町は毎月十二日に米沢屋熊蔵宅で開くことになった。


明治後期頃の七日町

 やがて人と荷物の往来がはげしくなるにつれて道路も整備され、荷物を運搬する運送会社が営業するようになり、明治二十年十二月東京の内国通運会社の出張所が、七日町一九八番地に置かれた。

 又、客馬車が七日町を若松の基点とし、坂下に向けて出発するようになったのが明治三十三年頃からで、御者が吹くラッパの音から〝トテ馬車〟と呼ばれ、大正十五年頃まで営業していた。

 明治三十六年十二月十日、七日町郵便局が開設された。初代局長は地元の酒造業家出身の林直八氏で、自宅の一部を局舎とした。

 金融機関としては、大正二年六月に、勧業貯金株式会社が七日町一三番地に設立され、大正十年代には町の北側の第二塚原呉服店西隣りに太宰貯蔵銀行、その隣りに郡山橋本銀行、二軒おいて福島県農工銀行が営業している。

 昭和初期の金融恐慌後、七日町の金融機関は大きく様変りし、大正二年六月に北小路町で営業を開始した会津勧業無尽株式会社(大東相互銀行の前身)が現在地に店舗を移し、太宰貯蔵銀行は福島貯蓄銀行となり、昭和十九年十一月に東邦銀行に合併するまで営業をしていた。又、白木屋漆器店の東隣りには、一ノ町で大正四年六月から営業をしていた第四銀行若松支店が移転してきた。

 現在は、大東相互銀行一行のみが営業している。

 昭和十二年、道路が舗装され、昭和二十三年には国鉄会津宮下線に、町民の熱意で〝七日町駅〟が出来た。時あたかも日本政府による国土総合開発法の施行を迎え、朝鮮動乱による日本経済の立て直しのエネルギー源として脚光をあびた只見川筋電源開発工事現場への出入口として、工事が下火となる昭和三十年代の始め頃まで、異常な賑わいを見せた。

 この町には三ケ寺院がある。そのうち常光寺は町の北側にあり、山号を松林山といい、比叡山南光坊の末寺で天台宗である。境内には古峯神社、権現堂、めぐり合観音堂があり、本堂の前には寛永寺燈籠がある。

 常光寺は初め律宗の寺として創建され、その後に真言宗に替り、元和九年(一六二三)に今の天台宗に改めたという。昔は一町歩以上の境内地を有し、庭園には築山があり、四方に堀を廻らして「四方堀の常光寺」と呼ばれ、伽藍も荘大であったが、度々の火災で消失し、慶応三年(一八六七)、今の東山、羽黒山東光寺の本堂を貰い受けて再建した本堂も、明治十六年の大火で焼失している。

 現在の本堂は、昭和五十四年に造改築されたもので、正面が八間(約一四・五メートル)、奥行十間(約一八メートル)の大きな本堂で、中には本尊として阿弥陀如来が、右側には虚空蔵尊が祀ってあり、後には位牌堂が連っている。

 二階には書院があり、寺院建築としては珍らしい本堂である。

 境内にあるめぐり合い観音は、町廻り三十三観音の十七番観音である。

 その西にある吉祥院は、相生町にある自在院の末寺で、真言宗で山号を長命山という。慶長六年、越後の僧弘信により創建され、一尺七寸(約〇・五二メートル)の地蔵尊と、一尺五寸(約〇・四五メートル)の地蔵尊を祀っている。土地の人々は、この事で吉祥院とは言わずに地蔵堂と呼んでいる。

 境内には画人野出蕉雨の頌徳碑があり、昔境内にあった〝鶯や柳のうしろ藪の前〟の芭蕉の句碑は、境内の西に建ったホテルの塀の内にある。

 この町末の南側にある阿弥陀寺は浄土宗の寺で、正覚山十却院阿弥陀寺という。寺の開祖は良然上人で、慶長八年(一四三四)蒲生秀行の時代に建立された。

 良然は下野国円通寺の住職で、有名な高僧であったが健康を害し、療養のために会津に下り、重臣等と交り、領主の学問の相手をしながら保養につとめていた。

 後、この地を賜わり、検断の倉田氏と相計り、大伽藍を建立した。当時としては城下に類のない程壮観を極めたが、再度の火災に遇ってその後再建の途立たなくなり、七間(約一二・七メートル)と四間(約七メートル)の堂宇で経過、明治戊辰の役後、城取り壊しの際、御三階を買い受けて仮本堂としてきたが、明治百年を記念して再建を計画、四十九年春に着工し、秋までに大部分の完成をみた。それが現在の堂宇である。

 城内から移築された御三階は、若松城唯一の遺構であり、寺宝として永く保存するために、本堂の左に移転された。

 境内東側に、東軍墓地がある。戊辰の役の際の戦死者を葬ったところで、その数は武士町人合わせて千二百人位であったそうだが、その後、会津以外の東軍戦死者の合祀が行なわれ、現在は四千六百五十八柱を祀り、戦前は春秋二回、小・中学生の団体参拝が行なわれていたが、戦後はマッカーサーの指令により、団体の参拝は禁止された。


東軍墓地

 東軍墓地に面して左側に、戦前は露座の大仏が祀られていた。この大仏は明和四年(一七六七)に造られ、飯盛山の宗像神社社地に祀られたものであったが、明治二年、神仏混淆禁止令によって破却の憂き目に遇っていたものを、明治二十六年、時の当寺住職萩生田感応師の尽力によって、戊辰戦死者供養のために移座されたものであった。だがこの大仏は、前大戦の激化するなかで、金属供出令によって、隣りの観音像共々応召し、現在では大きな台座石垣だけが残されている。

 境内の中央には立派な鐘楼がある。鐘は柏木家三代の先祖が、会津全域より材料を集め、材木町の星野鉄工所に頼んで造らせたもので、四~五年かかって明治三十二年に出来上ったという。

 また境内の道路側には、明治二十六年十月十二日、芭蕉の二百年忌に際し、山内忠孝氏ほか芭門一同の建てた「もの言えば唇寒し秋の風」の句碑が立っている。

 昭和三十六年、第四次住居表示の改正で町名の変更が審議された際、七日町から代表として出席された委員さんは、今まで慣れ親しんできた町名を消してはならないという町内の総意を受けて、一ッ七日町郵便局のある事、二ッ七日町駅のある事、三ッ七の字は幼児でも理解でき親しめる数であるなどの三点を挙げ、その存置を強く主張されたそうだが、その甲斐があってかどうかわからないが、昭和四十二年八月の新住居表示では、桂林寺町の角から東は大町一丁目となったが、西は七日町の町名がそのまま残された。

(中村トミ)