七日町の北に並び、大町より西の方、大和町に至る道である。長さ二町五十二間(約三一二・三メートル)、幅四間(約七・三メートル)、文化期における家数は四十六軒であった。下町に属し、南は七日町、北は原町に接し、この町が出来た頃には紺掻きが多く住んでいたのでこの名があるという。
紺掻きとは『古語辞典』によると、「藍で布地を染めること。またそれを業とする者。染め物屋。紺屋。こうかきとも」言うとあり、紺屋とは「藍染めを業とする家。染物業。染物店。こうやとも」言うとある。
職人の町で、往昔には紺掻きが、文化当時は塗師が多く住んでいた。だが今日においては紺掻きの面影を残す家は一軒もなく、塗師関係の職人が多い。
盆が来たのに紺屋が焼けた 踊りゆかたも皆焼けた などという歌も残っているが、こうした歌詞は全国的にみられ、必ずしもこの町を唄ったものとは限らない。
昭和四十二年、旧後ノ分通りから西は七日町に編入となり、東は現行の大町一丁目となった。
(中村トミ)