紺屋町の北に並び、長さ二町五十三間(約三一四メートル)、幅四間(約七・三メートル)の通りで、この町に属する家数は五十二軒であった。
この町のさる屋敷内に〝芦原稲荷〟という小祠があったと伝えられており、往昔において、この地に芦が多く生じ、この芦を刈った跡はさながら原野のごとく見え、その名残りで〝原町〟と名づけられたもののようである。
この町には、刀鍛冶の国安が居住していたことが、『新編会津風土記』の記事中に見える。
「国安太吉、姓氏の出る所を詳にせず、先祖を清太郎光国と云、近江国に住し、濃州関の住志津三郎か伝を得て刀剣を鍛ふ、天正十八年(一五九〇)蒲生氏郷に従って会津に来り、慶長中(一五九六-六一四)秀行のために佩刀幷矢鏃を製せしに、秀行是を善し世々国安と銘すへきよしを命し、且扶持米を与ふ、尋て加藤家の時も給米を与へられ、当家封に尋て月俸を与ふ、今に矢鏃をつくることを業とし、云々」
だが、この記載内容には疑問があって、近年の研究結果では、国安の姓は小熊といい、小熊家の祖といわれている清太郎光国は、刀鍛冶である古川兼定系の二代兼定(綱房)の門人であったというのが定説になってきているようである。
初代兼定は濃州関兼氏十二代の末裔にあたり、弘治二年(一五五六)に葦名盛氏に仕官して二百石を賜わり、蒲生氏郷、上杉景勝の時にも同じ祿高を賜わっている。
二代兼定は慶長六年(一六〇一)に蒲生秀行に仕え、二十人扶持十五石を給わり、慶長十六年(一六一一)には十五石を賜わった。
古川兼定系は刀の製作が多いが、初代国安(清太郎光国)は鏃鍛冶の名工といわれ、作刀は極めて稀である。国安二、三代(寛文頃)以降は鐔工として有名であった。
『惣町銘義』によると、この町にも塗師が多く居住していたようであり、『追遠表功碑小伝』にも、渡部儀右衛門は文政十二年(一八二九)に生まれ、原之町に居住し、明治十六年の木盃革新に際し木盃塗方堅地を案出し、その技量は塗師の模範であった。篠崎新十郎は文政十一年(一八二八)生まれ、板物塗師の中心として活動した人物である等の事が記載されている。
なお、原町は明治六年に〝之〟の字が加えられて〝原之町〟となり、昭和四十二年の住居表示では、旧後之分町を挾んで東の方は大町一丁目に、西の方は七日町に変更された。