原町の北に並び、長さ二町五十三間(約三一四メートル)余、幅三間(約五・五メートル)の通りでこの町内に属する家数は四十五軒であった。
道場小路という町名は、北小路や当麻町とともに、会津の時宗寺院と深い関係をもった町名である。
『新編会津風土記』によると、時宗の祖一遍は、伊予国の住人河野七郎通宏の二男で、建長中(一二四九-五六)に発心して僧となり、善恵について念仏の法門を学び、紀州熊野に至って霊夢を受け、ついに時宗を開いた名僧である。
この一遍は、当時広く行なわれていた熊野信仰、伊勢信仰と深く結び、念仏宗をあまねく広めんがために、踊り念仏を民衆に勧め、結縁の人々に「南無阿弥陀仏」と書いた念仏札を与えながら全国を遊行し、一所不住であったために一名を遊行上人などとも呼ばれた。
当会津には、建治三年(一二七七)に下向し、耶麻郡新宮に時宗の道場を建て、黒川には東明寺を建立したが、当時新宮は熊野信仰の盛んなところとして知られ、一つの城下町を形成していた。
一遍の建立した道場の近くには、二条の小路があって、その小路はそれぞれに道場小路、北小路などと呼ばれていたようである。
新宮氏は応永九年(一四〇二)、同族である加納庄佐原氏を滅ぼし、同十月には黒川に謀反したが、翌十年正月、戦いに敗れて和議を乞うたものの、その後も度々謀反をくり返し、応永二十七年(一四二〇)七月、遂に葦名盛政の攻撃にあって滅亡した。
『新宮雑葉記』によると、この新宮氏落去ののち、新宮の民家は黒川に移され、道場小路や北小路などもこのときに移されたものであるという。だが、それがいつの時代であったかについては何の記載もない。
伝『葦名時代黒川城市図』というのがある。詳細に調べてみると、江戸時代に入ってから描かれたもののようであるが、この地図では城の西方に東明寺が描かれている。そしてその東側に当麻丁の道筋があって、さらにその東に〝道場〟が描かれているが、何の道場とも書かれていない。しかしこの東明寺という寺は、山号を当麻山といい、大和国禅林寺、相模国無量光寺とともに三当麻と称し、時宗三大名刹の一つであった。とすると、当麻丁の道向かいに描かれている道場というのは、新宮から移されたという当麻の道場、つまり時宗の道場であったことが想像されるのである。
『新編会津風土記』によると永祿九年(一五六六)、祖師一遍第三十世法嗣、遊行他阿弥という僧が、会津に来り、蘭若(寺)を開かんと欲し、時の領主葦名盛氏に請いて土地を賜わり、同年八月に時宗の道場を創建したとある。また別項では、この道場を窪道場と称したともある。とすると、前述した道場というのは、やはり時宗の道場と考えてまず間違いはなく、そして道場小路や北小路という名の小路も、この附近にあったものと思われる。
やがて葦名氏が亡び、伊達氏の時代を経、天正十八年(一五九〇)に蒲生氏郷が会津に入封してくるや、それまで士庶雑居して狭ま苦しかった黒川の里に大々的な町割りを実施し、城の近くにあった民家や寺社を郭外に移し、大町・馬場町・当麻丁などの町々もまた郭外に移したが、このときこの道場もまた郭外赤井町に移されて、改めて平等山西光寺となった。このとき同寺の客殿は九間(約一六・三メートル)に七間(約一二・七メートル)あったというから、その前身の窪道場だって、かなりの道場であったことが想像されるのである。
ところで郭外に移されてからの道場小路は〝道場小路町〟となって大町に属し、同町の旁出町となった。
また、醍醐三宝院の末山観音寺という寺がある。会津真言四ケ寺の一つで、馬宝山千手院と号す。
寛文六年(一六六六)に編纂された『会陽町街改基』によると、大町の旁出町として道場小路町の名があり、「道場小路町は四之町に当りて、西へ行くこと百八十歩ばかり、昔郭内にありて当麻の道場に近き故に名づく」とある。
その後、道場小路の東半分は上町に属し、西半分は後町に属するようになった。
『若松県人員録』によると、明治四年の戸数は五十一戸、人口は二百十六人であった。
昭和四十二年、新町名の施行によって旧後ノ分通りから西は七日町に編入され、東は現行の大町一丁目・二丁目に編入されて、四百余年の歴史をもった由緒ある〝道場小路町〟の名は消えた。