融通寺町の末に続き、赤井丁の角より、北は七日町に至る長さ五町二十三間(約五八七メートル)余、幅四間(約七・二メートル)の通りで、文化期における家数は八十四軒であった。
この町名の由来は、往昔の頃、名子や譜代をここに住まわせたことから名付けた町名であるといわれるが、また一説には〝名子屋出雲〟という者が住んでいた故に、この名がついたとする文献もある。前説をとるものは、『惣町銘義』や『若松市史』であり、後説をとるものは『会陽町街改基』や『会津鑑』などである。
この町の中程西側に、浄土真宗の寺院無量寿山長命寺がある。慶長十年(一六〇五)本願寺十二世教如の草創で、蒲生秀行に請い日野町(後の甲賀町)に一棟を営んだのが始まりで、境内狭隘のため寛文七年(一六六七)にこの地に移ったという。
江戸時代における長命寺は、三方に土塀と濠をめぐらし、北は一大庭園をなして老樹鬱蒼と繁り、築山が連なっていたという。そしてさらに、江戸の築地や浅草の両坊と同じ掛所として、その築地塀には五本の定規筋が入っている。この筋は寺の格式によって三本から五本まであって、五本の筋が最高で別格本山を意味するものであるという。
現在では一般末寺となっており、往昔の寺格を表わすこの塀も崩壊寸前のありさまである。
戊辰戦争の際、この長命寺界隈は一大激戦場となったことでも有名である。慶応四年の八月二十九日、籠城の将兵は精鋭を選りすぐり、佐川官兵衛を総督として出撃することに決した。
松平容保は出撃の前夜、一同の者を励ますために夜遅くまで別れの酒を酌み交し、将兵らは感涙にむせび、滅私奉公を誓った。
ところがさて翌朝、酒を飲みすぎた佐川官兵衛は寝過し、夜も明けた頃、西出丸門よりラッパを吹き鳴らし吹き鳴らし、融通寺町口へと出撃していったという。
だが、佐川隊は優勢のうちに戦いをすすめ、西軍は長命寺に退き、そこに立て籠ったのである。
佐川隊は、右は赤井丁西光寺、左は融通寺町城安寺裏から、また手明町法泉寺の墓石の間から前進し、激しい砲撃戦を展開しつつ三方から長命寺境内に突入、遂にこれを占領した。
しかし西軍は、いったんは退却したものの、援軍を得て反撃に転じ、再び激戦となった。時がたつにつれて佐川隊の惨状は甚だしく、各隊長をはじめ、戦死者は続出した。
このとき、佐川官兵衛の父・幸右衛門も戦死した。六十三歳の高齢で、すでに死を覚悟し、官兵衛の止めるのも振り切っての出撃であった。
死を覚悟しての出撃は、他の将兵も皆同じであった。このときの佐川隊の死体には、必ずといってよいほど、「慶応四年八月二十九日戦死」と書いた布切れを身につけていたという。
隊長の佐川官兵衛は、敗戦の責任を痛切に感じ、再び藩主に謁するに忍びず、収容した負傷兵を城中に送りこむと、自からは米代一之丁の小笠原邸の土蔵を仮りの営舎とし、これより落城まで常に城外で戦い、二度と城内に引揚げることはなかった。
長命寺には戊辰の戦死者が多く葬られており、毎年九月二十三日には、慰霊祭がとり行なわれている。
長命寺の北には興性寺がある。浄土真宗東本願寺の末寺で、和田山と号する。永祿二年(一五五九)、願明の開山になる寺で、当初の頃は善久町にあって光性寺と称していたが、元祿六年(一五六三)にこの地に移り、延宝の末年(-一六八〇)に興性寺と改称した。
今は廃寺となったが、この興性寺の北に針西山秀翁寺という寺があった。文祿二年(一五九三)良善という僧が、越後より会津の地に来て創建した寺で、大町融通寺の末山で浄土宗の寺であった。
『日暮延命物語』という興行記録によると、寛政九年(一七九七)五月、この西名子屋町に芝居座が建てられた。八間(約一四・五メートル)梁に八尺(約三メートル)の両下屋付き、行間十八間(約三二・七メートル)に九尺(約三・四メートル)の下屋付き、大工は二之町の森右衛門、善久町の孫右衛門で、総工費は百七十両であったという。
六月十七日より江戸役者瀬川菊之丞、市川高麗蔵一行のこけら落し興行があり、〝俊寛嶋物語〟〝仮名手本忠臣蔵〟〝義経千本桜〟などの変り狂言で大当りをとり、七月二十日が千秋楽。八月二十六日から九月四日までは江戸角力の柏戸・四ッ車一行の興行があって、怪童大童山文五郎の土俵入りで、これまた大評判をとったという。
この西名子屋町は、昭和四十年の新住居表示で、赤井丁の角から北小路町の角まで日新町に、昭和四十二年の施行で、日影町と呼ばれていた通りは七日町に編入された。(渡辺)