当麻丁より西に折れ、赤井町の北に並んで西名子屋町に至る、長さ一町四十八間(約一九六メートル)、幅四間(約七・二メートル)の通りで、文化期における家数は三十二軒であった。
ここの町名の由来は、『新編会津風土記』によれば、当麻丁より別れた通りなので、この名がついたという。
また、この町の中頃より善久町を過ぎて、針屋町に出る小路を〝中町〟といい、その長さは一町四十二間(約一八五メートル)で、この町に属する家が一軒あった。
当麻中町という町名は、『旧事雑考』には見られず、『蒲生若松城下明細図』にも、当麻中町にあたる道路は書かれているが、町名の表記はない。
また『新編会津風土記』によると、この町の末に続く町を〝家風〟と呼び、家数は二軒とある。
『惣町銘義』によると、この当麻中町は、紺屋町・原町・善久町と同様、職人が多く居住しており、なかでも塗師が住んでいたという。『会陽町街改基』にも後町十四町内で種々の職業に従事する者の総数を記しているが、その中でも塗師の七十二軒と、酒屋の六十二軒とは群を抜いている。
この町には長泉寺、正蓮寺、大運寺の寺々がある。その中の長泉寺は時宗東明寺の末山で、山号を珠得山という。慶長二年(一五九七)、東明寺中興の僧文峯の建てた寺である。
正蓮寺は東本願寺浄土真宗の末山で、天正元年(一五七三)了善という僧本願寺に上り、本尊と寺号を受け、領主に請うて一寺を城西河原町(『旧事雑考』では材木町)に建てたのが始まりで、のち今の地に移ったという。その年代は不明だが、『蒲生若松城下明細図』では、すでに現在地に書かれている。
大運寺は正蓮寺の西に並び、広博山と号す。江戸増上寺の末山で、浄土宗である。元和三年(一六一七)寂誉という僧の草創である。
この当麻中町は、昭和四十年の新住居表示で日新町に編入された。