この町は城の東北部に位置し、三日町口郭門より東は御薬園まで、北は千石町より南は天寧寺町と、その西に続いて外郭に接する区域である。その中には次の十七条の通りがあった。
上長丁・下長丁・薬園前通り・新丁・一乗寺前通り・中丁・浄光寺通り・隍端通り・下隍端・六軒丁・東大工丁・浄光寺前通り・法林寺前通り・横通り・願成就寺前通り・清水丁・高井丁。
徒町は文祿二年(一五九三)、蒲生氏郷の町割りによって出来た町である。家臣の中でも軽輩者である徒組の者達が居住した一画なので、そのまま町名となった。
松平時代になってからも、藩主にお目見え以下の者が居住し、徒町の者の俗称として弥太、あるいは弥太様と呼んだ。赤鞘の大刀一振りを腰に帯び、冬でも単衣一枚を着て、塔婆の板で作った下駄を履いて城下を闊歩(かっぽ)する弥太の様子は『弥太進小伝』や『徒之町狂歌百首』などに残されているが、彼ら下級武士の困窮したくらし向きを皮肉って、ユーモラスに描かれている。
その弥太様たちは、この町の数多くの通りに約二百五十軒ほどに分居していた。(小林)