徒町口郭門より北へ、願成就寺前通りに至る一町二十九間(約一六二メートル)、幅二間(約三・六メートル)の横通りで、化政期頃の家数は五軒であった。
この通りの南端にあった徒町口郭門は、正保四年(一六四七)に書かれた『城下絵図』には明示されているが、『家世実紀』天明元年(一七八一)九月朔日の項によると、この郭門はそれ以前より使用されておらず、この年に破却されたとある。また文化六年(一八〇九)編になる『新編会津風土記』にも「…今不用なる故鎖して往来を禁す」とあり、江戸後期の大須賀清光筆『城下町絵図』にも、木柵で通路の鎖された様子が描かれている。
しかし幕末の頃の城下絵図には、この郭門の所在は全く姿を消し、横通りも願成就寺通りと記載したものが多い。
明治四十年、若松に聯隊が設置されると、この郭門跡は、ちょうど聯隊の北裏門となった。
現在の町名は徒之町である。
(小林)