小田町の東端より、極楽寺を経て天寧寺町の浄光寺通りに続く、長さ一町(約一一〇メートル)余、幅三間(約五・五メートル)の通りで、化政期頃の家数は二十二軒を数える。
この通りに坂があって、極楽寺坂といい、この坂を挾んで西に極楽寺、東に称名寺・浄光寺の三ヵ寺があった。
極楽寺は、葦名十三代盛高の子浄顕が永祿七年(一五六四)に開山し、本堂内に始祖である佐原義連座像、父の盛高座像を安置した。
通りの向かいにあった称名寺は、廃寺の時期は不明だが、もとは徒町法林寺の末寺であった。浄土宗一行山といい、慶長年間(一五九六-六一四)沙門教誉によって開山された。この寺にはかつて観音堂があって、町廻り三十三観音の第十六番札所であった。
この寺の北側が、日蓮宗の浄光寺である。
寛永十二年(一六三五)九月十七日、当時高遠城主であった保科正之の生母お静の方が病のために他界され、高遠の妙法山長遠寺に葬ったが、のち正之は山形に移封となり、その地に母の菩提供養のため、法名の浄光院殿法紹日慧に因んで法紹山浄光寺を建立、当時長遠寺の住職であった寿命院日遵をもって開山とした。その後の寛永二十年(一六四三)正之会津の大守になるに及んで、城南に同寺を建立 さらに萬治三年(一六六〇)、三世日然の代に当地に再建、代々寺領百石を賜わり、東西一町十六間(約一三八メートル)、南北一町十九間(約一四三・五メートル)の境内には大伽藍があったが、戊辰戦争の兵火にあい、釈迦堂のみを残して焼失した。
(小林)