・河原新丁

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 この通りは、湯川の北側の現在の産業道路と重なってあり、小田町のあとに続き、西は天神橋に至る長さ四町五十七間(約五四〇メートル)幅二間(約三・六メートル)の細い道で、化政期における一般町家の数は四十九軒あった。

 湯川端に開かれた町なので河原新丁と呼ばれた。また、この通りより小田垣口へ北に折れ、長柄町二番丁までの間に住居八軒あり、この通りを俗に八軒丁とも呼んだ。

 『戊辰若松城下明細図』には、河原新丁の通りを、中小田町、下小田町と表記している。

 この通りの西手にある天神橋と、郭門熊野口において、戊辰戦争時、激しい攻防戦が展開された。慶応四年(一八六八)旧八月二十四日午後三時、長州藩兵は、若松城で最も防備の手薄な熊野口に対して猛攻を開始、会津側は城内に残っていた老・弱兵が、進撃隊長武井柯亭指揮のもとに出撃して大激戦となり、天神河原は敵味方の死屍で山になり、湯川の流れは血の色で真赤に染まったという。会津側はこの日の戦闘で戦死者二十八名を出した。

(小林)

河原新丁の現在の姿