この通りは、今では全く姿を消したが、その東端は今の国道一二一号線の近くより、西へ僅かばかりの区間の通りで、その長さ五十九間(約一〇七メートル)余、幅二間(約四メートル)余の小路で、文化期における家数は九軒であった。
この通りの東部南側に、今は廃寺となったが、天正中(一五七三-九二)、萬機という僧の開基した浄土宗の寺で、鷲鷹山長楽寺という寺があった。江戸後期には町廻り三十三観音の第二十番札所として諸衆の信仰を集め「寝ても聞き起きても響く長楽の鐘の音ごとに唱う一声」 が御詠歌であった。
同じく、この通りの東の方というから、たぶん長楽寺の近くであったろうと思われるが保科正之会津入部の際、保科家の祈願所である真言宗の寺、文明寺もここに移し建てられたことがある。この寺は延宝中(一六七三-八〇)に南町河原新丁に移されたが、廃寺となって今は無い。
またこの通りの西部北側に、藩校の一つ友善社があった。天明八年(一七八八)十二月会津藩は一藩皆学の実を挙げるために学制の改革を行なったが、その際この地に学舎が新設されて南学館と称した。この南学館は日新館のもとにあって、もっぱら下級藩士の教育にあたり、享和二年(一八〇二)に友善社、文政三年(一八二〇)には南素読所と改称された。
今、この通りのあったあたりは南花畑となっている。
(宮崎)