湯川の北に並び、東は小田町河原新丁の末より、西は大橋詰めに至る道である。つまり田中建設工業のある通りである。湯川の南岸を通る道が南河原町であるところから、河原新丁を別名〝北川原丁〟とも呼んだ。
また丁の両端に僅かばかりの裏道があり、その形が鎹(かすがい)に似ているところから、俗に〝鎹丁(かすがいちょう)〟とも呼ばれた。
丁の長さは三町四十間(約三九九・七メートル)幅三間(約五・四メートル)。道の南側には、湯川の土堤に沿って百軒長屋というのがあったが、文化期における家数は二十二軒で、南町分に属していた。
現在の町名は南町になっている。
中町から河原新丁に入って北側に、文明寺という寺があったが、この文明寺の敷地にはいくつかの歴史があり、寛永年間(一六二四-四四)、この地には加藤氏の菩提寺長福寺があった。寛永八年(一六三一)九月十二日加藤嘉明が江戸において死去した際には、この寺において盛大な送葬の儀が執行された。
その後、明成の代に有名な堀主水事件が発生、明成は封土を幕府に返還し、石見の国に移ることになったとき、長福寺の僧は明成に従う意思がなく、明成を怒らせたというが、寺はその後間もなくして廃寺になった。
その後の寛永二十年(一六四三)、保科正之が会津の大守となるや、保科家代々の位牌所建福寺を、前任地の山形から移転させてこの長福寺跡に置いた。建福寺は山号を大宝山といい、臨済宗妙心寺派の寺で、門田黒岩の現在地に移転したのは延宝八年(一六八〇)のことであった。
さらに建福寺の跡に移ってきたのは、高遠山文明寺という寺院で、初めは花畑にあったものをここに移したという。真言宗で開山は何時であったか判らないが、信州高遠にあった寺で、文明年間(一四六九-八七)の草創なのでこの名称なのかもしれない。
天正年間(一五七三-九二)に堯存(或は行尊)という僧が、保科弾正忠正直に仕え、企画にすぐれた臣であった。激戦のときには先鋒となって常に敵の堅陣をおとし入れ、戦功が非常に多かった。正之の養父の正光に従って上総の多胡(千葉県)に移ったが、正之が山形城主となると山形へゆき、寛永二十年(一六四三)若松に転封すると若松へ移って、今の花畑にいたのを延宝年間にこの建福寺跡地へ移転したものである。
この文明寺には観音堂があった。千手観音を祭っていた。寺伝によれば、昔、上総国香取郡五郷内村(多胡の近隣)に稲荷山樹林寺という寺があった。大昔から本堂に安置してあった金の観音像が寺の火災のとき行方不明になってしまった。近隣の信者たちはあわてて捜してみたが見つからない。灰になった本堂跡に夕顔の花が一茎咲いているだけであった。
ところが、信心深い一農夫に観音さまのお告げがあり、夕顔に水をやって大事に育てたところ実を結んだので、家へもって帰って割ってみたら、その中から黄金の観音像が出てきた。人びとはそれが失った観音像であることを知って、樹林寺にお堂を建てて安置し、「夕顔観音」と言うて信心してきた。
保科正之はこの夕顔観音を信じて新像を模写して作らしめ、僧堯存に守らせたという。従って南町の文明寺の千手観音は、町廻り三十三観音の第十一番札所(高く見て遠山寺の観世音ちぎる御法の夕顔の花)となっていた。
しかし戊辰戦争の兵火で文明寺も観音堂も全焼し、維新後は廃寺になってしまった。あのあたりに再び夕顔の花が咲いているかもしれない。信心深い人よ、夕顔の花を捜して実を育ててください。再び黄金の観音像が見つかることでしょう。
文明寺の東にもう一つ西龍寺という寺があった。これも戊辰戦争で焼けて明治以後復活しなかったから今はないが、浄土真宗で京都東本願寺の末寺であった。元亀三年(一五七二)というと、武田信玄と徳川家康が三方ケ原で戦った年であるが、僧了岩が三河の味崎村に小庵を造り西龍寺と呼んでいたが、弟子の僧良円に住職をゆずった。
その後家康の臣鳥居元忠は三方ケ原の戦で足に戦傷を受けたが功があったので下総矢作(千葉県)四万石の領主となると西龍寺も下総へ移り、元忠が関ケ原戦の前哨戦の伏見城戦で討死し、嫡子忠政が磐城平十二万石の領主になると、磐城に移り、やがて鳥居氏が山形へ移ると山形へと移転したが、鳥居氏除封後山形城主だった保科正之に従って寛永二十年(一六四三)会津へ移動してきたという歴史をもった寺院であった。
西龍寺には古文書や親鸞上人真影など宝物が澤山あったが、戊辰戦争のとき本堂とともに焼きつくされたと思われる。
文明寺跡も西龍寺跡も、現在の町名では南町である。