・中横町 なかよこまち

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 南町大橋を渡って湯川の南岸の中横町に入る。大橋のたもとから南へ弓丁(今はない)の角までの短い区間だが、中横町といい長さ一町一間(約一一〇・九メートル)余、幅三間(五・四メートル)、文化期における家数は十八軒を数え、その先は常慶寺町である。


橋の向かい側が旧中横町

 湯川に架っていた南町大橋は、長さが十間(約一八・一メートル)、別資料では十五間(約二七メートル)ぐらい、幅三間(約四・四メートル)ぐらいだったという。昔から両側に欄干がついていた大橋だったというから、人馬の交通も繁しかったものにちがいない。

 現在この地は国道の東が表町、西が錦町である。

 次は湯川であるが、黒川、又は羽黒川と昔は呼ばれていたらしい。東山渓谷から流れ出た湯川は、現在若松の市街地になっている扇状地を造成した河川であるから洪水毎にあちこち流れ出ていたのであろうが、鶴ケ城の前身東黒川館が至徳元年(一三八四)芦名七代直盛によって築かれた頃は、この扇状地の中央、つまり今の宮町から市民会舘付近のところを流れ下っていて、小田橋-天神橋-南町大橋-河原町大橋の川筋は、その頃はまだ流れていず、応永二六年(一四一九)六月の大洪水のときにできた河川であるという。城の北を流れていた一本の川筋が、今度は城の南を流れる川筋ができて二本となり、城北の流れを車川、城南を羽黒川と呼んでいた。それ故、南町大橋の流れはその時以来のものであるし、橋もその後のものであるから比較的新しいと言ってよい。その後車川は、蒲生氏郷の築城のとき、堰止められて外濠となったので、それ以来湯川はここ一本となった。

(宮崎)