中横町、常慶寺町の西に平行している南北の通りで、北は湯川の岸より、南は古川の辺まで、長さ一町四十七間(約一九四・二メートル)余、幅三間(約五・四メートル)余とある。
『家世実紀』によると、享保十六年(一七三一)三月十八日の九半時というから、今の午前一時頃である。この町に住む紺屋勘兵衛宅より出火し、火元は一軒で消し止めたものの、折りから辰巳(東南)の風烈しく、晒屋町、並に花畑へ飛火し、諸士諸奉公人の家土手内五十七軒、土手外百七十五軒、足軽の家三百九十六軒、町家南町分十九軒半、材木町分九十六軒、河原町分七十五軒、融通寺町分八十一軒、東黒川分五十二軒、西黒川分六十三軒、柳原村分三十八軒、幕内村分十八軒の外、栄岸寺、大法寺、弘長寺、城安寺、極楽寺、長源寺、花畑口、河原町口の各郭門と番所、融通寺町口番所を焼失するという大火があった。
現在では、旧竪丁より北の道は宅地となって湯川の岸までは達していないが、それ以外の道形は残っており、新町名では錦町となった。
(宮崎)