年貢町の天満宮の南から東へゆく通りである。
この天満宮裏に数軒の武家屋敷があってその東に〝御植物園〟というのがあった。〝植溜屋敷〟とも言い植木などがあったので〝若葉丁〟の名が出たのかもしれない。
若葉丁の入口に、幕末の頃池上武輔という藩士が住んでいた。武輔には三郎、四郎という二人の息子があって、兄は安政二年(一八五五)生で、弟は二つ年下だった。兄弟とも藩校日新館に入って勉強していたが、学業が優秀で頭角を現わしていた。戊辰戦争の年は兄が数え年十四歳だったから、白虎隊には入れず、それでも兄は籠城して戦った一員であった。戦後父母に連れられて兄弟は斗南に渡り、辛苦の生活を送ったという。
兄三郎は明治三年上京、慶応義塾で苦学力行、明治十年司法省に入り、長崎・大阪控訴院検事を経て神戸地方裁判所検事正になった。三八年一一月、函館控訴院検事長を最後に退職、東京渋谷の自宅で風月を楽しみ、大正二年一一月死去。六二歳、従三位勲二等。
弟四郎は、兄を頼って上京、横浜正金銀行の柳谷卯三郎の書生として苦学、警視庁巡査に出願して採用された。その後は努力に努力を重ねて明治三十三年、四十四歳のとき大阪府の警察部長に推せんされた。大正二年には輿望を負って大阪市長に就任、財政再建、都市計画事業の推進により三選され、名市長の名を博し、朝鮮総督府の政務総監をもつとめたが、昭和四年四月四日逝去、七三歳であった。今大阪天王寺駅前公園には、総高二〇メートル余の日本一大きい銅像が建っているが、それが池上四郎である。
(宮崎)