現町名の、錦町二番の西部から、三番の地内にあたっており、この地の南を古川が流れている。芦名時代には家居はほとんどなく、漆の樹が多く植えられていたので、漆原と呼ばれていたが、蒲生氏郷の就封後、新しく町割りが行なわれてはじめてここに歩卒の家居が置かれるようになり、漆原組町と呼ばれるようになった。
現在の錦町二番と三番の境界にあたる南北の通りを西横町といい、その西に並んで一番丁から五番丁まで置かれたが、この一条から五条までを結ぶ北側の通りは竪町通り、あるいは漆町竪町とも呼ばれ、この南北五条の小路と、東西一条の小路とをもって、漆原組町を構成していた。
松平氏時代になってからも同様で、この附近一帯には足軽・同心らが多く住んでいた。ただし、文化六年(一八〇九)の編纂になる『新編会津風土記』には六番丁までの記述がある。しかし正保年間若松城下絵図では五番丁までの記載しかないところをみると、六番丁というのは正保年間(一六四四-)以降、文化六年(一八〇九)までの間に増設された丁なのであろう。この六番丁というのは、現在の錦町と、城西町の境界にあたっている。
明治二十六年発行の、陸軍省実測図によると、漆原組町は南町分に組み入れられて、南町漆原町となっている。現在では錦町分に含まれて、この一画には県営錦町団地ができている。
(小島)