文祿中(一五九二-六)、蒲生氏郷の町割りによって出来た町である。当時、今の花畑団地のあるあたりに広大なお花畑があったので、花畑という町名になったという。後に東名子屋組町の地内にも花畑が出来て、通称を〝新花畑〟、あるいは〝北花畑〟と呼ばれ、城南の花畑の方は〝南花畑〟と呼ばれるようになった。
その昔、このあたりに刑伐場があったとも伝えられているが、その時代や場所は明らかではない。
この花畑地内を通る東西の通りは、大きくいって二条ある。その一条は湯川端を通る晒屋町=河原通り、もう一条は、今の県道西若松停車場・南町線の南側、平山歯科医院の裏あたりを西下し、百メートルばかり下ったところでいったん北に折れ、再び西下する道であった。
このカギの手に折れるところまでの通りを花畑通り、カギの手に折れたところから先、御厩町一番丁の東端に致るまでの通りを大通りといった。
一方、花畑口郭門より南に直進し、この大通りに至るまでの通りを花畑口通りと称し、郭門口より西に折れ、南北の通りである西通りに至るまでの通りを、隍端通りといった。
また西通りの西には小路五条があり、大通りの西端から湯川の岸に至るまでの通りを、御厩町一番丁、以下北に並んで順次五番丁まであったが、これらの小路はすべて花畑組町に入っていた。
明治二十六年に発行された陸軍省の測量図によると、この花畑は南町分と日吉分に分割して組入れられており、大通りは南町花畑、花畑組町の大部分は南町厩町、厩町二番丁から五番丁に抜ける横通りから西の一画は日吉石塚向、厩町一番丁から南の一画には日吉晒屋町の名が見えている。
(小島)