・大通

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 四町十三間(約四六〇メートル)余、幅三間(約五メートル)、化政期における家数二十八軒、一名を南町通りとも称した。

 葦名氏の時代には、この辺一帯に暮露が多く住んでおり、暮露屋小路と呼ばれていた。暮露とは有髪の乞食僧のことであるが、この暮露は室町時代から江戸時代のはじめにかけて存在し、後世の虚無僧に類するものであった。

 松平氏時代となってからは、この通りの南側に夫丸小屋が設けられたが、夫丸とは、年限をもって抱えておく人夫のことである。

 幕末の頃、この夫丸小屋の数軒東向かいに丹羽族の屋敷があった。族は、会津藩家老丹羽家の分家筋にあたる人で、戊辰戦争の際には越後口八十里越え方面の代官として、兵糧方総督を兼ねて大沼郡野尻に駐在していた。七月二十九日、長岡城が再落城するや、長岡兵や会津兵とともに多数の避難民が会津側に殺到してきた。その数は数千人ともいわれ、族はこれらの避難民の救助や、部隊への補給が命じられた。

 族は部下を督励し、土地の人々から食糧を集めようとしたが、どうしても集まらない。避難民の飢渇を目の前にして万策のつきた族は、八月六日、遺書をしたためて全責任をとって自刃した。これを伝え聞いた農民らは驚いて糧米を供出し、避難民たちは無事若松に到達することができたという。族、享年三十九歳であった。

(小島)

丹羽族の墓(大龍寺)