天応元年(七八一)、陸奥大縁石川浄足伊治公呰麻呂が乱を避け、本州宮城郡多賀城より会津に来り、今の墓料牛ケ墓、当時の堂家というところに潜伏していた。後この地で死亡、その子孫は三家に分かれ、一は堂家、一は石部、一は石塚を名乗り、三浦氏(一一八九-)の時までかなりの勢力をもっており、この地に石塚氏の舘があったところから、石塚の地名が生まれた。
文献上においても、戦国期からすでに見えている地名で、「実成寺文書」のなかの天文四年(一五三五)五月三日日附の「佐瀬常教田地寄進状」によると、長谷川清兵衛尉がその買得地である「東黒川之内法花堂南堀際百五十苅、並石塚之南弐百苅、合参百五十苅之田地」を実相寺に寄進、葦名盛舜がこれに加判(承認)している。
湯川の西、川岸よりやや離れて北から弘長寺、長善寺、東昌寺と三ヵ寺並んでいたが、これらの寺の前通り、南北の道を石塚前通りといった。
北の弘長寺は時宗寺院で、康暦元年(一三七九)、鎌倉光徳寺の住僧が葦名直盛に従って来住し開山した寺で、はじめは光徳寺と称した。数世の後に衰廃し、慶長(一五九六-六一五)の頃、越後国上田弘長寺の住僧で其阿という者が上杉景勝に従ってこの地に来り、当寺に住して寺号を六照山弘長寺と改めた。そして近年、戊辰の役で廃寺となった同宗の古刹、東明寺の寺名を再興すべく、同じく廃寺になっていた西光寺を加えて、由緒ある東明寺の寺名を継承することになり、弘長寺改め当麻山東明寺となった。
その隣りの長善寺は、はじめ湯川の東岸石塚向町、今の湯川町の南西部にあったが、寛永の頃(一六二四-四四)にこの地に移転したもので、その南の東照寺もまた、はじめはこの地の西北方にあったが、加藤氏の代にこの地に移した寺であった。しかし両寺とも、廃寺になって今は無い。