東は今の川原町橋の袂から、西は材木町に至る長さ三町二十六間(約三七四メートル)、幅四間(約七メートル)余、家数七十二軒の通りであった。
蒲生氏郷の街割り当時の河原町は、湯川の東にあって、南北に走る通りであった。つまり、旧中川原町が当時の河原町であったが、寛永八年(一六三一)十月の大洪水によって人家ことごとく流亡したため、改めて現在の一画に移され、河原町という町名もそのまま移された。
この町の東端に架かる橋は長さ十五間(約二七メートル)、幅三間(約五・四メートル)に勾欄のついた橋で、大橋と呼ばれた。
蒲生氏時代以降のこの橋は、関山街道、高田街道、銀山街道から材木町を通じ、河原町口郭門に入る重要な橋で、この橋を渡って直ぐのところに外濠が回されており、濠の内側で左折したところに河原町口郭門があった。
加藤明成の代、老臣の堀主水が若松城に向けて鉄砲を放ち、会津を出奔した話は有名であるが、彼が出奔したのはこの河原町口郭門からであった。
この道の南側には、東から新町一番丁、同二番丁、同三番丁に入る道があり、現在の会津酒造博物館はこの新町三番丁入口の西角ということになる。
一方北側には、湯川沿いに原町新丁に出る裏道があり、その少し先には盛寿院、さらにその先には大法寺があった。
このうち盛寿院は廃寺となって今はない。大法寺の方は山号を妙了山といい、寛永二十年(一六四三)、日如という僧が最上よりこの地に移り、開山した日蓮宗の寺である。
『家世実紀』慶安四年(一六五一)の条によると、三月二十八日、河原町近所に前々よりあった追廻馬場の再興を仰付けられたとある。だがその場所がどこであったかはよくわからない。
戊辰戦争の際には町の大半が焼失。明治初年、新町の一部が河原町に編入されたが、同十年には一部が新横町に編入された。
昭和四十年、材木町、門田町大字日吉の一部が編入され、一部が現行の御旗町、材木町二丁目となった。