材木町

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 河原町の末より南に折れ、飯寺に至る長さ十町十七間(約一一二二メートル)余、幅五間(約九メートル)の通りで、この町に属する化政期頃の家数は七十七軒であった。

 昔、南の山々より材木を伐り出し、鶴沼川を利用して運び、売買する商家があった。彼らははじめ米代の西方部に集っていたが、慶長十四年(一六〇九)、蒲生秀行の代に、それら商家はここに移されて材木町と称するようになった。

 当時はこの町の西に沿って応湖川が流れ、舟も上下していた。寛永八年(一六三一)には大洪水で家屋十軒が流され、また元祿(一六八八-七〇四)中には鶴沼川、応湖川、湯川の三流が併わさって一つの大きな流れになるという大洪水に見舞われ、大きな被害を出したために、同十六年(一七〇三)、この町の南端より、東南方にむかって二十町(約二キロメートル)にわたり、高さ九尺(約三メートル)ほどの水防用土堤が築かれた。

 この土堤は、土堤上に柳の樹が植えられていたところから、通称〝柳土手〟と呼ばれていた。

 この町の東側には主に商家が立ち並んでいたが、西側には古くから寺社があり、北から栄岸寺、住吉神社、秀長寺、天照寺などがあった。

 一番北にあった栄岸寺は安養山と号し、浄土宗の寺で、慶長十八年(一六一三)、随天という僧の開いた寺で、応湖川の川岸にあって栄える寺を象徴するような寺名であったが今は廃寺となり、材木町団地入口の南側に僅かばかりの石碑だけが残されている。

 その隣りの住吉神社は、至徳元年(一三八四)に、大町肥前左京盛胤という者の勧請した古社で、祭神は底土男命、中土男命、表土男命で、昭和五十九年、〝会津鶴ケ城築城六〇〇年まつり〟にあわせ、勧請六百年祭がとりおこなわれた。

 正保二年(一六四五)のことである。三月十四日、八ッ時分というから今の午前二時頃である。この住吉神社前の長床に乞食どもが寄り合っており、そこから失火し、折りからの西風にあおられて材木町三十一軒、新町侍屋敷七軒、その外鉄砲衆の家四軒、合せて四十二軒が焼失するという大火があった。

 また、この住吉神社の西を流れる応湖川畔、つまり住吉河原の一帯は、戊辰戦争時における古戦場として有名である。

 慶応四年(一八六八)九月五日、会津藩の城外出撃隊総督佐川官兵衛は、日光口の西軍が本郷から若松へ侵入しようとしているのを知り、住吉神社とその隣りにある秀長寺裏の林中や、民家の陰に伏し、西軍の到来するのを待った。四日夜、大内峠を経て本郷に到着した西軍は、五日早朝に大川を渡河し、材木町西側の鍋屋(現在の星野鋳物工場)付近の畑地に集結した。軍監中村半次郎は、白河口西軍主力と連絡をとるため薩摩の一隊を率いて柳原を迂回し、城下の白河口西軍本部に向ったが、佐川はこの軍監不在の西軍を急襲し、これに大損害を与えて敗走させた。

 この日の戦闘で西軍側は薩摩兵が戦死一、芸州兵が戦死一、負傷八、肥前兵が戦死一、負傷四、中津兵が戦死一、負傷三、宇都宮兵が負傷三、館林兵が戦死四、負傷四、人吉兵が負傷三、黒羽兵が戦死四、負傷六、大田原兵が負傷二を出したのに対し、会津側は戦死一、負傷五を出しただけで多数の兵器・弾薬・糧食などを分捕ることができ、城下の諸戦闘中、唯一の勝利であった。

 栄岸寺と住吉神社に挾まれた一角には、御酒蔵の清美川があった。

 住吉神社に隣接した秀長寺は、山号を龍雲山といい、曹洞宗の寺である。

 この寺は昔、隣松院といって猪苗代にあり、天文(一五三二-五五)中、直孫という僧の開基した寺であったが、蒲生氏郷就封の後、猪苗代城主町野左近はこれを厚く遇していた。その後左近は白河城主として移り、一方隣松院は数度の火災に罹って方途を失い、これを憂えた左近は、慶長十年(一六〇五)、城主秀行に訴えて寺を現在地に移し、亡父秀長の法名「龍雲院殿花陽秀長大居士」からとって龍雲山秀長寺と改め、その位牌所とした寺である。本堂裏の墓地内には、〝拝領妻〟一件で小説や映画にもなった笹原忠一の墓がある。

 明治初年、河原町新丁や新町の一部がこの街に編入されたが、昭和四十年、町の一部が川原町に編入となり、残りは今の材木町一、二丁目、御旗町、城西町となり、昭和四十一年には現行の住吉町が誕生した。