半兵衛町

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 融通寺町の西方には、東西にのびる数条の通りがあって、この辺一帯は、蒲生の家臣岡半兵衛重政が騎馬武者七〇人を常置していた士屋敷であった。これに因んで半兵衛町とよんでいた。

 このいくつかの通りは、融通寺町口から西に延びる新丁・烏橋通、この北側の通りには水主一番丁・袋丁があった。又これに対して南北に走る通りは新丁通・横丁・横丁通・中河原町などがあった。このうち新丁・横丁・中河原町は町分である小黒川分の住民が住んでいた。

 岡半兵衛重政は、越後小川庄津川城三万三千石を領し、津川=若松間を往復していたので、越後街道沿いの地域とは特に関係の深かった蒲生の重臣であったが、慶長十八年(一六一三)何の罪か駿府に召され、そこで誅せられた。半兵衛町の近くにある極楽寺に彼の墓がある。このお寺のあたりは融通寺町となったが、現在は本町である。

(本田)

岡半兵衛重政の墓(右方の五輪塔)