一番丁~四番丁の東西の通りに対して、一番丁の中ほどから南にのび、自在院の北、智光寺の側を西に折れて妙法寺前通久福寺の門前あたりに出る。甲賀町通りと博労町通りの間で、現在の若松一高の校地になっている所であろうか。当時は八十人町のちょうど中程にあった通りだったので中町と呼んだものと思われる。
八十人町は、もと足軽八十人住んでいた町であることからつけられた名であるが、八十人町と総称した全体では、家数が一五〇軒ほどもあったので、人数なら数百人にも及ぶようになる。はじめ八十人の足軽が住んでいたのは、街道筋の一番丁あたりで、後にだんだんと住宅地が広げられていったものと思われる。
(本田)