糠塚町

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 郭門大町口より北に向って延びている大町の通りは、北に行く程お寺や墓地が多く、通りの西側には融通寺・実成寺があるが、その先少し行ったあたりまでで大町の道は行止まりとなり、つき当った所に東明寺があって、ここから東西二手に道が分かれていた。東は千軒道、西は糠塚町となっていた。大町通りを会津若松駅の方に向って歩くと、この辺から道幅が広くなっているのでよくわかる。

 糠塚町には幾筋も通りがあって、〝町〟・〝丁〟で表されていた。すなわち、この中には〝通丁〟(糠塚表丁)・〝松圓寺前通〟・〝裏町〟(糠塚裏丁)・〝外裏町〟・〝木椎町〟・〝新田丁〟・〝裏町〟などで、これらを総称して糠塚町と呼んでいた。

 蒲生時代は、はじめ〝糠塚町〟として前記のうちの〝通丁〟(糠塚表丁)一条だけで、これより西の方は町分の赤岡分と接するところで、人家もほとんどなく辺鄙な所であったが、蒲生公がこの地を開いてからだんだん西に集落ができるようになり、七つの通りが形づくられるようになった。

 蒲生時代、当時の原組赤井村(現在湊町赤井)の糠塚という所に新田を開いて足軽・同心など歩卒を置いた。現在、白河街道旧道にある沓掛峠を登りつめた穴切の近くで、国道二九四号線が通っている。ここには糠塚の地名がまちがいなく残っている。

 この新田開発は、どういう訳か程なくして取り止め、再び足軽達を若松の西北の地に移した。そして、この地一帯を〝糠塚町〟と呼んで足軽同心たちの住まいの地とした。これより先は町分で、北は石堂分、西は赤岡分になっている。このような土地柄のためか、町はずれには射撃練習場の角場や、弓の練習場の的場があった。

(本田)