調査を終えて……
   雑感あれこれ

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 私の家は、十字路に面した東南角にあって、町名は追手町。十字路の西南は山鹿町、東北は東栄町、西北は西栄町と、ちょうど四町名の接点にある。旧町名で言うと、東西の通りが栄町ニノ丁、南北の通りが栄町四丁目であった。

 何年か前のことである。新住居表示が実施されたばかりの頃、「山鹿町とは、どこでしょう」といって尋ねにこられた人があった。私の家の西向かいが山鹿町になったなどとは露知らず、「さぁどこでしょうネ、一ノ丁に山鹿素行の碑がありますので、あるいはその辺かな?」などと答えて、後で悪いことをしたと思ったことがあった。

 今では栄町ニノ丁という町名も、栄町四丁目という町名も、もう無い。

 昔の町内会は、道の両側で構成していたから、私のところは栄町上四丁目町内会に属していたが、しかし現在では道の東側が追手町、西側が山鹿町となって、そのどちらの町名も名乗るわけにゆかず、町内会の名は旧来通りに栄町上四丁目町内会で通しているようである。

 神明通りや、新設の中央通りのようなメーンストリートの場合はともかくとして、私の家の前の通りのような場合、何通りと呼んだらいいのか、今もってわからない。

 昔は、街道沿いに集落がつくられ、路を中心として中世都市や、近世都市がつくられた。昔の人々の考え方の中には、〝みち〟というものは、家と社会、あるいは個人と社会をつなぐ重要なきずなとする認識があった。それはあたかも、母親と胎児とをつなぐヘソの緒のようなものであって、必要欠くべからざるものとして、みちというものを大切に考えてきた。そして町名というものは、道につけられた名であった。それがやがて、もののふの道とか、人の道などと使われるようになり、それが近世になると、書道とか、華道、茶道、合気道などと、いたるところで使われるようになってきた。

 だが、現在の新住居表示を見ると、人家の集まりを面としてとらえ、一定の面積をもって町と称する。いかにも役人が、地図を机の上に拡げ、その地図上で思案した区画、区画が、今の新町名である。従って道には名が無い。

 今回の調査に参加させていただいて、一口に町名とは言っても、本質的なところではこうした大きなへだたりのあることを、文中でどう表現すべきか随分と迷ったが、結果的には、余り深く考えないことにした。

(小島一男)

 地名がいまなお全国いたるところで改変されている。それも、ほとんどのケースがお役所のいわゆるご都合主義で変えられてしまうのだから、長い間その土地に住む人々にとっては、たまったものではない。改変は三十七年施行の住居表示法に基づくものだが、「ただ黙って見ていたら、優れた文化的遺産が滅亡してしまう」と、民間の人たちや、国会議員が、手を携えて悪法の改変に立ち上がった。

 これは、たまたま私の手元にある昨年四月二日付『読売新聞』の津田解説員の記事の一部であるが、こうした結果、住居表示に関する法律の一部改正法案が、同年六月七日国会で可決成立した。つまり「歴史的地名保存法案」の成立で、これまで事実上野放し状態となっていた自治体による無原則な地名変更に歯止めがかけられることになった。

 だが、この改正法案の成立は、当市では既に手遅れであった。というのは、ここ二十数年の間に主要な(歴史ある)町名はすでに改変されてしまっていたからである。それにしても思うことは、今回のような町名由来調査が新住居表示事業に着手する以前に、なぜやらなかったかということである。調査を充分に行ない、残すべき町名は残し、改めるべき町名は改める調整を行なった後に実施していたとしたら、もっと別の結果が出ていたのではないかと思うのである。

 何はともあれ、遅すぎた調査であったというのが、報告書を書き終えての実感である。(調査員として満足な仕事もせずに、文句ばかり言って申訳ありません)

(小林 等)

 私は郵便とか、公的なものは新町名を使用するが、それ以外は旧町名を通している。

 旧町名を聞くと、町のたゝずまいや、商っている商品のにおいや、町の人々の、折々の姿恰好が目に浮ぶ。

 住居表示が始って二十年になるが、今だに新町名はピンとこない。新町名で町を言はれても、その町は、がらんどうの、何も無いビルディングのような索莫とした思いがする。

 今回旧町名の由来を調べてみて、町名はそんなに大上段に構えて出来たものではなく、ごく自然に便宜的に名付けられたようだ。

 長年慣れ親んだ町名は、生活と切っても切れぬ関係にあり、町名を言えば、そこでくらしている知人に通じる。知人の姓名を言はず町名がその代用をする程に、町は人々と一体なのだ。

 両親、祖父母、それに連る多くの人々の息づかいが聞こえるのも、その人達が生きた昔の町名の町々なのだ。

 蒲生氏郷が町割りをしてから、あと数年で四百年になる。

 人々は死に替り、建て物は建て替えられ、町の名が出来た時の根拠の事蹟は遠の昔に失い、町の様子は刻々と変化している。そして、新町名が出来ても、旧町名が四百年近い命脈を保っているのはナゼだろう?

 今回の旧町名の調査は、今迄発表されている会津の歴史とは視点の違う、若松の町々の歴史を調べる仕事でもあった。

 庶民の生活の場の記録等、何処を探しても見つからない。わずかな断片でもあればいいほうで、全然無い町もある。でも人々はその町で営々と生活を築いている。

 旧町名は、そんな人々の汗と涙と共に、生きてきたのだろう。

 御協力いたゞいた沢山の方々に御礼申し上げます。

(中村とし)

 婦人郷土研究会の会長さんから、「旧町名に関する出版物の編集委員として本会から一名出してほしいとの要請があったので、中村さんを推薦しましたのでよろしく」との電話を受け、とんでもないことになったと困惑しているうちに委員名が発表になり、辞退することもできなくなり、取りくむ決心をしました。

 ところが第一回の編集委員会に止むを得ない事情で欠席してしまったので軌道にのるまで時間がかかり、何事も出発の第一歩が大切であることを再認識した次第です。

 さいわい、生れが若松だったのと、担当区が育った地域に近いところであったこと、又城下町なのにどうして旧町名が消えてしまったのだろうとの疑問を前からもっていたので、並々ならぬ苦労もありましたが、興味をもって進めることができました。

 図書館には何回通ったでしょうか。目的の資料がみつかった時のよろこび、そして図書館には今まで思いもよらなかった資料が揃っていて、昔の人はよくこんなに調べて遺しておいてくださったものだと感心するばかりでした。

 又担当地区の有識者や古老を訪ねて本題に関することをお尋ねした時、真剣にお答えいただいたこと感謝しています。

 編集委員の方々には資料を指示していただいたり、いたらないところを助けていただいたり、あやまりを指摘していただいたり、有難うございました。

(中村トミ)

 博労町に住んでいる友人から、住所変更案内が届いた。それには「上町」とある。まもなく訪れた時、
 「どの辺が博労町になったの」
 「もう残ってないのよ」。
 「たしか由緒のある町名だったわよね」
 「そうらしいわね」。
この会話から二十年近くなる。

 私には、新住居表示になった経緯は良くわからないが、今度の旧町名由来調査に加って、担当した甲賀町から東に当る十八町は、一町も残さず新町名に変更されてしまっていたのには、驚き、且つ、考えさせられた。

 もし町名が、形ある〝物〟だとしたら、この町は、天正年代や、文禄年代から伝わっているのだから、とうに、文化財指定間違いないのである。〝物〟は、日常の使用で消滅につながり、不可能となるのは当然だが、無形の〝もの〟は、生活の深いかかわりを持ちながらも、永遠に伝えられ、年代が経る程その価値が高まるところが有形と似ている。

 私は、理由なしに新住居表示に反対しているのではないが、変更以前に、充分な調査期間をおいて、もっと検討する必要があったし、必要に応じては残す方法は、いくらでもあったのではないかと残念なのである。この調査で、お目に掛った方々さえ、旧町名を残してほしかったと、強く訴えておられたのが非常に印象深かった。書き録されている歴史だけでなく、実生活に生きて存続している歴史を、もっともっと大切にしたいと考えたのは私だけだろうか。

 筆をおくに当って、御指導をうけ、御世話をいただいた皆様に、心から厚く御礼を申し上げたいと思う。

(治田成子)

 市内の町名は、毎日の生活の中で、しゃべったり聞いたりして慣れている筈なのに、その由来を尋ねられるとほとんど答えられない状態である。例えば、私は石堂に長い間住んでいたので、「糠塚」界隈はよく知っている筈であるが、町名の起こりは皆目見当もつかなかった。ただ漠然と昔聞いた話で、「このへんに糠をもってきて塚をつくった」なんて、おぼろげにも頭に残っているのはこんな程度の事であった。

 今回の町名由来を調べていて、「糠塚」の由来を知ったことは大へんな収穫だったと思っている。そして、この地名の元になる地域の地図(湊町に糠塚の地名現存)を送ってくれた方がおり、ほんとうにありがたかった。

 地名や町名は、古い記録や伝承などをたよりに調べても、どうしてもわからない事がある。むしろ分らないことが大部分で、記録にあるのはごく一部ではないかと思われる。特に年代もずっと古くなるとどうしようもない。結局どのへんまで調べられるか。今後も続けて行きたいものである。

 町(丁)のないところには町(丁)名はない。そうすると、町(丁)が出来たのはいつ頃か。糸をたぐれば、どうも氏郷の「町割り」という都市計画が、このルーツの大きな段階のひとつになる。その前の葦名時代あるいはそれ以前からの地名とのかかわりはどうなのか。そこまでは手は届かないが、この調査に携わってみて、ひとりで勝手な仮説をたててみた。

 担当した町名について、もう少し歴史的説明を付け加えればよかったと思っている。例えば、半兵衛町に士屋敷を構えた岡半兵衛という武将、芦名がはじめて会津に下向した幕ノ内から移った小館(現在小館稲荷の地)、西から北辺にかけて多い寺院や足軽同心の住居、「千軒道」にまつわる別の由来、木地小屋千軒の説など、あれもこれもと今になって考えている。

 町名や地名由来の調査は容易なことではないが、今回の調査を基にして少しずつでもいいから加除訂正の修正作業を続けていったら、歴史的価値の高いすばらしい町名・地名の書ができるのではないかと期待している。

 「城下町若松」とか、「歴史のふる里会津」とか、よく耳にする言葉であるが、これを実際に支えるには何かが必要で、このような町名・地名調査の作業もそのひとつであり、大きな任務ではないかと感じた。

(本田良弥)

 私は古い地図を見るのが好きである。若松の城下町地図などコピーしておいて、それをポケットに入れて散歩する。ところどころでこれを見ながら歩くのである。すると昔の武家屋敷や店屋が見えはじめ、或は子供たちの喚声まで聞えるような気がする。

 若松の城下町は、百十数年前の戊辰戦争の兵火であらかた焼けた。そのために武家屋敷などは全く残っていないが、幸に道路だけは昔のままの道型で残っているところが多い。武家屋敷の中にあった庭園や樹木の一部が残っているところもある。神社や寺院も昔の面影が残っているところが多い。それらの残跡とこの古地図を合わせてゆけば、昔の城下町が再現でき、タイムトンネルで昔の城下町に入っていって散歩することができる。

 この〝歴史散歩〟は、古地図さえあれば、何時の時代へでもゆけるから妙である。幕末の地図はよく手に入るが、芦名や蒲生時代の地図がないわけではない。或は地図などなくともある程度推定でもいい。

 例えば天正十一年(一五八三)二月二五日に、信州深志(後の松本)の大名で武田信玄に追われて会津の芦名氏の下に逃げて来ていた小笠原長時が、芦名氏の重臣富田氏実の邸に招かれていた宵、坂西勝三郎という家来に斬り殺されてしまうという事件がおきた。坂西は富田家の門内で捕って殺され、事件は解決した。小笠原長時の墓は、今も東山町慶山の大龍寺の本堂前にある。

 ところでこの事件の起きた富田邸は何処にあったかというと「稲ノ台」としか出てないし、稲台とは何処のことか判らない。しかし私の推定では米代ではないかと思う。米代を今もヨネダイと発音するわけが判ったような気がするし、この事件の舞台が浮びあがってくる。

 私はこの本が以上のような〝歴史散歩〟をする人びとの古地図と同じようなお役に立ったならば〝最高〟と思う次第である。

(宮崎十三八)

 私の住んでいる町は、旧〝老町〟である。市民にとっては周知の町名だが、よそから来た人たちには、とても〝おとなまち〟とは読めないであろう。だが、私たちは何の不思議もなく暮して来ていたのである。

 ところが今回の調査に参加し、その〝由来〟なるものを調査してみたが、歳月の風化というものは恐しいものである。その由来なるものは伝承の域を出ず、鮮明には浮かび上ってこないのである。こうした変った町名にした以上は、そこには何らかの根拠があったのであろうと思うのだが、よくわからなかった。

 ところで、ここ二十数年来、数次にわたって改変されてきた新住居表示だが、なぜあの地域に日新町が誕生したのか、なぜ駅の東に白虎町が誕生したのか、その町に住んでおられる方々はご存知なのかも知れないが、私などはどう考えてみてもよくわからない。

 我々の感覚としては、その文字の持つ意味もさることながら、当市は〝歴史のある町〟ということで、会津藩が誇る藩校〝日新館〟の方が先にイメージとしてある。そして、その日新館は城の西にあったことも知っている。それなのになぜ、日新館跡とは縁もない街西北の地に〝日新町〟なるものが誕生したのか、我々凡人は理解に苦しむのである。

 こうした事例は、何も日新町に限ったことではない。そのほかに新しく誕生した町名のなかには、首をかしげざるを得ないような町名が、数多くある。現代人の我々にしてからがこのざまである。子供に聞かれたとしても、新町名の由来など、とても語ってやれないし、今から五十年たち、百年たちするうちに、再び〝町名の由来〟などというような事にでもなったら、今回の町名の調査以上にわからない町名は数多く出てくること間違いない。

 〝新住居表示〟事業は終ったのか、進行中なのか私にはわからないが。しかしいつかは完了するのだろうから、その完了時点で〝新町名の由来〟なるものをきちんと作ってもらいたいと思う。それは、改変を行なったものの、後世に対する絶対責任であると思うからである。

(渡辺 明)