一、奈良時代から平安時代頃までの地名について

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 養老五年(七二一年)下総国葛餝郡大嶋郷の戸籍には甲和里、仲村里、島俣里の地名がのっている。
 大嶋郷の地域は現在の葛飾区と江戸川区のあたりに推定され、島俣里は葛飾区の現柴又の地で、甲和里は現在の小岩をもって当てているのが定説となっている。
 大嶋郷は以上の三里から成っているのであるが、仲村里については未だどの地域かはっきり推定されるまでにいたっていない。しかし江戸川区内にその地を推定することが適当だと考えられている。
 一説に区内の下小岩の中曾根耕地が仲村里であろうといっている。しかしこれは下小岩の小字であって、当時甲和里が小岩であるとすると近距離にすぎて不合理のようである。甲和里についてはその中心は現在の研究では上小岩村の上小岩遺跡を中心とする地域と推定される。同所は弥生時代後期の遺跡で、すでに湮滅してしまってはいるが、重合して古墳時代の遺跡でもあって、昭和二十七年から昭和三十五年頃までにわたって多くの出土品が採集されている。
 甲和里は下総国府を対岸国府台上に望み、北の方指呼の間に島俣里の炊煙を望見出来た地点で、江戸川の自然堤防洲上の一角であって後に発展して上、下小岩に分離したのである。
 甲和の命名は和銅六年(七一三年)の勅命により、諸国の郡郷の名を改め、好字二字をもってあてた地名であり、一般には甲和が後に転化してコイワになり、小岩に当てられるようになったといわれている。
 しかし甲和が当時の原音でどう発音されていたか問題点がある。一応甲はカと呼ばれていたので甲和はカワと呼んだということになるし、又甲を現在のようにコウ或はカウと発音していたとすると、当時アイウエオの五母韻が彼此相通じて用いられ、特にイウエの相通が多いとされている。(例、魚はイオでありウオであった)このことからこの甲和の地名の原音はコイワであって、それを甲和の二字にあて後に小岩と当てられるようになったと考えることも可能である。
 さきにのべた仲村里については中曾根耕地(下小岩)にあてる説はかなり無理があり、又甲和里と島俣里の中間に想定する説も無理がある。後者についてはこの甲和と島俣里の聞か近すぎることと、この二里の間に一里を形成したような古来からの集落のあったという証拠は何もなく、しかもこの間には鎌倉町など後世の開拓の地があるばかりであるからである。
 仲村里については区内の古い字名の中に東一之江の「中村」という字名があるが、これは一つの何かの手がかりになるのではないかと思う。
 この地は所謂一之江境川の沿岸で川をはさんで東一江と西一江の集落のあったところ、この地形は又小松川境川の両岸に東小松河と西小松河の集落が発達していた地形と全く同じである。往時江戸川(太日河)の三角州上に南下するこの二つの境川により江戸川区は大きく三分されていたし、この境川の流れこむところには入江が深く湾入していたと思われる。水利のよい土地であり、半農半漁の集落があったと思われる。
 そしてこの地のあたりが古墳時代の江戸川区の最南端であったろうという推定は、実証的には小松川境川の両岸に中世紀貝塚が点在しており、その中の東小松川香取神社境内貝塚は明らかに古墳時代の遺跡であって、鬼高式土器外、須恵器片、土錘等を多く出土している。又北方鹿島山遺跡(本一色)も同じく古墳のあったところと考えられている。一之江境川の両岸にも一之江天神山を中心として貝塚が点在していることは小松川境川と全く同様であるが、残念なことにこの遺跡からはまだ古墳時代の遺物が発見されていない。
 しかし古墳時代にこの沿岸に一里が成立してしても無理はないし可能性も考えられるのであるが、未だ十分の資料に乏しいので推定の域は出ないが一つの可能性ある問題点として提起しておきたいと思う。
 大化改新後「総」の国が二つにわかれて下総国が成立したが当時の交通事情から千葉県南半部は安房までふくめて上総であり、今の千葉市、市原市付近から北は下総であった。これは京都からの道程が今の浦賀水道のあたりから海をわたって上総につき東京湾岸を北上して下総の国府(市川)に至ったもので上総の国府も、下総の国府も東京湾岸にあったのである。後世になり東海道の整備されるに従い、鎌倉、江戸時代となると幕府が関東の地に開かれ政治の中心地になるにつれて交通路も江戸を中心として江戸から市川渡を経て下総、上総安房に至る道をとるに至った。平安時代延喜式や倭名類聚鈔に下総国葛餝の郡名が出ている。この葛餝の名はかなり長い間用いられ後葛飾と書かれるようになった。
 区内勝曼寺の阿弥陀如来像の胎内から出た元和元年の藪崎隼人の願文に葛餝の字が用いられている。因にこの勝曼寺の願文は江戸川区内に現存する最古の文書であり後世の字名隼人作りはこの隼人の名をとっている。