二、鎌倉時代の村名

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 応永五年(一三九八年)の葛西御厨注文による江戸川区内の村名は左の通りである。
   下小岩
   長 島
   二 江
   鹿 骨
   今 井
   東一江
   上小岩
   上篠崎
   下篠崎
   松 本
   東小松河
   一 色
   西小松河
   蒲 田
   西一江
   中曾根
   下平江
   荒 張
 下総の国の葛飾郡が江戸川を境にして葛東と葛西にわかれるようになって「葛西」の地名がうまれたのである。
 そして所領地が葛西庄であった関係からこれをとって氏としたのが葛西氏である。葛西氏は祖先は遠く平家の出であって戦国時代の武蔵の名族であり葛西、豊島の両庄を所領していた豊島清光の三子肩重が葛西の庄に住み源頼朝の重臣となり後奥州奉行になっている。
 鎌倉時代になると大体現在の江戸川区の地形の母型ともいえる江戸川デルタの形が出来上った。と同時にその開拓もさかんになったわけである。これは鎌倉に幕府がおかれ中央権力の府が関東にうつったことにもよって、集落も増加し、村名を見ても十八村の名が御厨注文に記載されている。
 この十八村中「荒張」は後の新堀村といわれ、中曾根は下小岩の中曾根耕地をあてている外、十六村の名はそのまま江戸時代から明治年間までその村名をつたえている。
 これらの村名を通覧して見るとその特色は、水にゆかりのある地形的な呼称が多いということである。
 即ち島、河、崎、江、井、田などのつく地名だけでも十二カ村に上り全体のおよそ七〇%を占めている。
 以下村名の小解を記して見よう。