今体(西一之江)、下府(二之江)、乗掛、蒸掛(二之江)、蒸掛(下今井)、新工(伊勢屋)、古寅(上鎌田)、横枕(西宇喜田)、鍛治(上鎌田)、四股(西小松川)、古銭(西一之江)、猿了(東小松川)、町人、蹴上ゲ(以上西小松川)、網差(四小松川)、給分(長島)、毛知(東小松川)、和免(桑川)、陣屋(東船堀)
この中には昔の素朴な生活感情をそのまま反映したものが多い。古銭などの地名はおそらく古銭でも出土したことからの命名であろう。
網差は網差新田といい御鷹野の餌まき役人であった加納甚内の知行四十石の地であった。旧行徳街道椎橋の近くにその屋敷があった。
又四股は今は荒川の河川敷になってしまったが、平井からの行徳道と、逆井渡からの新町を通って来た千葉街道の交叉点で四ッ股の名が生れた。又四辻ともいう。
陣屋の地名は現在でも陣屋橋というバス停に名が残っているが、おそらく鎌倉室町頃から戦国時代にかけての何人かの陣屋でもおかれた地であったと推定する。
近くには松戸市に陣屋口の地名がある。
蹴上ゲの地名も面白い。京都市に同名の地名がある。
住吉、曙、大和、朝日(以上船堀)の字名は明治中期に新らしく命名された雅名で歴史的な根拠は何もない。
自然に庶民には親しみがなく長く存続しなかった字名である。
反高という字名が小岩田と、下平井、前野の三ヶ村にあるが一寸意味は不明である。
長島に現在ものこっている堂屋敷、表門、裏門、馬場、宿などの小字名は同所の清光寺の周辺に散在していて、既述したように太田新六郎の知行の地で葛西長島高城の地であろう。ただ未だにその遺構等を検出するに至っていないが幻の城として今後の調査究明がまたれるのである。
毛知、和免などは意義不明、乗掛、蒸掛、新工、鍛治などは生糸関係の地名と推定している。