江戸川は往古太日河(又は太井川)と呼ばれ現在の渡良瀬川が南下した川筋であったといわれる。太日河という名は承和二年官符に見えて、右岸は葛西、左岸を葛東と称し下総国府は現在の国府台上にあり、この津頭に市川の名が見えている。江戸川は国府台のあたりで「がらめき川」とも呼ばれていたことは既述した。
太政官符(承和二年六月)
……応造浮橋、布施屋拝置渡船事……(中略)……下総国太日河四艘元艘今加二艘……(中略)……右河等崖岸広遠不得造橋仍増件船云々。とある。
僧仙覚の万葉集抄下総国の歌の註に布止井、葛東葛西の間を流るると云ふ者是なりとある。
東鑑(治承四年の候に)常胤広常等が舟しゆうに乗じて太井、隅田両河を渉り武蔵国に赴くと、見えている。
又、葛飾名所記に、利根川の末を葛飾の郡にて、かつしか川といふ、又太井川とも文巻川ともいへり。真間の岸の辺をからめき川ともいふ、則今の市川なり。という記述がある。
江戸川という名称が何時から行われたかは明確でない。
寛永十七年(一六四〇年)利根川筋の大改修以降のことであろうといわれている。即ち利根川の本流を今の銚子に東流させ、江戸川筋が江戸へ入る物資の主要な運航路として栄えるようになって、次第に江戸川の名で呼ばれるようになったのであろう。しかしかなり後までも昔の利根川の名で詩人墨客などの紀行文などには書かれている。