縄文時代後期から著しい土地の隆起がおこり海退現象を示したことは台地上の貝塚遺跡等の調査などからも証せられている。この時点をおよそ四〇〇〇年前と推定して見るとその後引続く海退現象とならんで、関東山地から南下する河川による冲積作用は関東中央南部の平野をつくり出すとともに次第に江戸川河口には大きな三角洲をつくり上げていったわけである。
国府台から東方につらなる下総台地下の隆起海岸の浅海に打ちよせる東京湾の波浪によって先ず砂洲が形成されていった。これは現在市川市中山、高石神付近から市川市市川の京成電車国府台駅付近にいたる凡そ五キロメートルに及ぶ長い砂洲であり、国電総武線の北側に沿い、京成の軌道はその洲上を走っている。この砂洲は八幡富貴島地先でおよそ四メートルから五メートルの深さがあって、その下にはい貝をふくむ自然貝層(市川貝層)が分布している。この貝層はこの砂洲面から北側にかけて広く水平に分布している。
この砂洲は所謂鎌ヶ谷渓谷の開口部をふさいだ形で形成されている。ある時期においてはこの砂洲と下総台地の間には波静かな潟(ラグーン)を形成していたものであろう。しかしこの潟湖は江戸川デルタの沖積が進むと同時に、鎌ヶ谷渓谷の中沢あたりを源流とする現真間川の堆積作用によって縮少していった。奈良時代には真間の入江として現在の真間山下に下総国府の泊地として残っていたのである。
この中山、八幡、菅野、市川にわたる大砂洲の形成後には江戸川による沖積作用が一層進み、江戸川右岸に小岩、篠崎、今井、長島、左岸には行徳、原木、浦安にいたる地帯が形成されたわけである。
今からおよそ六百余年前の鎌倉時代には今の江戸川区の現地形の原型はほとんど出来上っていたと推定される。
これは葛西御厨註文による村名を見ても明らかなように、現葛西町南部の一帯の低湿地をのぞいて、他の大半の地域には人々の人植があったのである。
これは区内の板碑の出土状況から見ても江戸川沿岸ぞいの集落から中部両境川の沿岸まで及んでいることでも分明であるし特に長島から文保元年(一三一七)の板碑が出ていることは当時の南限の集落であったと推定出来る。尚、篠崎、鹿骨、下鎌田等からは正応元年(一二八八)から正安、徳治年間の板碑が出土していることでこの地域の開発状況が推定出来る。
江戸川の沖積作用は江戸時代中期から次第にその速度をおとして来た。それは利根川、江戸川の治水策の成功によって江戸川は単に江戸への舟運の水路としての運河的機能を果すようになっていった。しかも明治以降東京を中心とする水害防止のための放水路建設や、関宿における江戸川分水関枠の整備も進み、近頃では自然の河川としての営力は極度に低下してしまった。
しかも一方では江戸川下流一帯の地盤沈下が近年は急速に進み、川砂採取などの要因も加わって洪水時においても江戸川の沖積作川は全く微々たるものとなった。
さて江戸川右岸と左岸の字名の比較をして見よう。
市川市及浦安町一帯の低地帯の字名を摘記すると
寒室出口、笹塚、小砂原、市川、真間、市川新田、第六天前、宮田、平田、菅野、中ノ割、大芝原、根切、冨貴島、古八幡、八幡、北方、鬼越、鬼高、高石神、圦下大洲、見附田、大和田、稲荷木、小栗原(船橋市)田尻兵庫新田、原木、二俣、高谷、河原、上妙典、下妙典、下新宿、本行徳、関ヶ島、伊勢宿、押切、湊新田、香取欠真間、相ノ川、新井、新浜、当代島、猫実、堀江、島尻、その外新田名もかなりある。
これらの地名を江戸川区内の明治以降の字名と比較して見ると、この両岸に共通した地名もあり同じ類型に属するものが多い。
江戸川区内の特色としてあげたように島、井、江、田、原その他水に関係ある低湿地の呼称の特色は左岸市川市、浦安町などの地名でも同様である。
当代島や堀江などは両岸にその地名がある。これはもと旧行徳領の飛地が江戸川区に編入となったもので、江戸時代左岸から右岸への開拓の歴史を物語っているわけである。
こうした字名の類似性というものは同じ時代に江戸川がつくり上げた沖積地であって、同じ時代に開拓の鍬がふるわれた歴史をもっており、しかもそこに住みついた庶民の共通の感情や生活がこの字名に投影しているといえる。
しかも江戸川という水路はこの両岸の住民にとって、最も便利な交通路でもあり共通の生活を持つ一つの重要なパイプでもあったといえる。