地名呼称についての一考察

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 山間部の渓谷地帯には「沢」のついた地名が多い。一ノ沢、二ノ沢、三ノ沢とか、或は上ノ沢、中ノ沢、下ノ沢、本沢、笹沢、木賊沢、樺沢、など多様である。そしてこの沢名をとって姓氏の称としているものもかなり多い。赤沢、黒沢、白沢、高沢、深沢、平沢、大沢、小沢滝沢、岩沢、唐沢、山沢、金沢、宮沢、荒沢、田沢、等これもかなりの数に上る。
 山間部に沢名が多いのは例を五万分の一男体山図幅にとって見ると記載されている沢名は二十三の多きに上っている。五万分の一の図幅では地名はかなり省略されているので実際には地図上の沢ごとに何らかの沢の名称があるわけで数は数倍に上るものと思われる。
 ところがこれが一転して平野部、特に沖積地帯には沢とか、山或は台の地名はほとんどないのである。
 区内の例をとって見ても沢のついた地名は僅かに当代島村の滝沢の学名が一つあるだけである。
 台のついた地名は区内には一カ所もない。これに比して対岸の下総台地上に行くと相模台、向台、下台、美濃輪台等の名称が多くなっている。
 このように地名の呼称は多く往昔の自然の景観、地形の特色によって呼ばれて来たことがわかるのである。
 この点から江戸川区内の地名の発祥は古くは奈良時代のことであるが、その数はすくなく、次第に江戸川デルタの開拓が進んだ時代、特に鎌倉時代からの発祥が多いのである。
 一例をあげて見ると区内各地に上、中、下などのついた地名がある。上小岩、中小岩、下小岩、上鎌田、下鎌田、上篠崎、下篠崎、中平井、下平井などの地名はいづれも上は北に位置し、中、下はその南につらなる地形になっている。即ち江戸川の河流にそい上流から下流へと名づけられている。
 このことはすくなくともこれらの地名の発生は、奈良時代以降、鎌倉時代、或は下って江戸時代の命名ですらあることを証している。
 奈良時代には国名の総の国が上総、下総にわかれたのであるが、この命名は東京湾岸ぞいに南から北へと上、下が命名されている。当時の交通路から京都に近い南が上であったわけであるからである。
 小岩を例にして見ると甲和里であった小岩は奈良時代にすでに集落であった。しかし上小岩、下小岩の名の出てくるのは鎌倉時代であり、中小岩村が分村したのは明確ではないが江戸時代初期のことである。
 江戸川区内のこうした上、下の命名は開拓の方向に沿って名づけられたといえるのである。
 江戸川デルタの形成が河流にそい北から南への方向をとったとともにその開拓も北からはじまり南へ、南へと進んだのである。
 この例の一つに一之江村と岩楯姓の分布の状況を見ると明らかである。一之江村は南北に狭長な地域で、南北は凡そ三・五キロメートルに及ぶが東西の幅は〇・六キロにすぎない。しかしてこの村内に岩楯姓は五十戸に及ぶのであるが、その総本家というのはこの地形の最北端に位置している。
 又この地一体の各村の鎮守の例をとって見ると多くの村々でその鎮守はその村の東北隅に近いところに位置している。
 区内葛西海岸地帯の開拓についても同様で、これは江戸時代慶長以降明治初期に及ぶのであるが、北部にある長島、二之江、桑川、下今井等の村々が南方海岸地域や海面を開拓して、入会新田として明治中期まで保持して来ている。
 こうした長い歴史の過程を経て生まれそだって来た江戸川区の地名は明治二十二年を契機として新しい近代社会に徐々にではあるが変ぼうするとともに整理され、(合併され新しい多くの村名、字名が生まれたのである。
 しかしこうした変革にあたってはともすると作業的で便宜的な命名が行なわれがちなこともいなめない。
 即ち居村東とか居村西、或は単に東、西、中、北、南といった名称、或は特殊な雅名をとって字名にしている例がかなりある。しかしこれもそう長い間存続していないのはその土地に先祖累代住みついた人々にとって、歴史的に長い伝統をもった地名を変えたことは自然住民の感情にそぐわないものをかもし出したからだと思われる。
 しかし近代化、都市化というものは、その土地に何らの歴史的にかかわりのない住民が新しく流入することであり、古い農民的感覚や、この低地帯独特のその土地の形成までさかのぼることの出来るような呼称に、そうした人々は無関心、無感覚であるのは止むを得ないことである。
 だから今都市化のはげしい渦中にある江戸川区にとって、古い地名、字名が埋没して行くことは必然の姿であろう。
 江戸川地内の古い地名、字名の特色を既述した分類等からまとめて見ると次の特色があると思う。
 一、水郷的、デルタ地形の特色による呼称
 二、水田の特色や開拓等を表現したもの
 三、昔の生活や社会事象、驚異、挿話などの率直な表現されたもの
 特殊な行政的命名によるものをのぞいて殆どが俗称が次第に定着して行ったものといえる。
 今後の地名等の変化はどうなって行くであろうか。古い文化が否定され新文化が生まれていく時に、古い文化の破壊の上に新文化がつくられて行くのが歴史の現実である。江戸川区の近代化の波の中にはこれも当然のこととして起っている。
 しかしその中にあっても古い文化遺産は何としても残して行くことが望ましい。しかし今それを残すという機能は弱小である。特に無形文化財については―地名や字名が文化財といえるかどうか一応問題にしないで―その多くが湮滅の運命をたどっていると言って過言ではない。
 私はこの江戸川区の地域に曾て栄えた開拓者農民の生活の残像とでもいえる古い地名、字名に限りない愛着を感じている。この小冊子を編したのはそれらを記録して残しておきたいという思いからである。