利根川の東遷

2 ~ 2 / 20ページ
 このころ利根川水系に加えられた河川改修工事は、総称して利根川東遷事業とよばれています。文禄3年(1594)の会の川の締切りにはじまって、承応3年(1654)に赤堀川を開さくして利根川水系と常陸川水系を結ぶまでのおよそ60年間で、これによって利根川の本流を常陸川へ導き、銚子で鹿島灘へ落とすことになりました。
 常陸川は、中世から江戸時代初期の名称です。利根川東遷以後は、中利根川、下利根川とよばれています。栗橋付近の沼沢から発し、関宿東部の諸沼の水を集めて東へ流れ、鹿島灘へ注いでいました。途中、鬼怒川、小貝川、手賀沼、印旛沼などの水を合流して、下流部には広大な低湿地帯を形成していました。
 また、利根川は上越国境の大水上山を源流とし、周辺の山岳部からの水を集めて渋川付近で関東平野に入り、これより下流では激しい乱流によって数条にわかれて江戸湾(東京湾)に注いでいました。現在の隅田川は、寛永6年(1629)に荒川の瀬替えがおこなわれて荒川の下流部になりましたが、それ以前は利根川が江戸湾に注ぐ主要流路であったようです。
 渡良瀬川は、かつて太日川、あるいは大井川とよばれ、栃木県西部の庚申山を源流とし、大間々(郡馬県)で平野に出て、ほぼ現在の江戸川の流路を南下して江戸湾(東京湾)に注いでいました。