利根川は、常陸川の本流に付け替えられて、銚子で鹿島灘に注ぐことになりましたが、なおも利根川の洪水が太日川筋に流入していましたので、関宿から金杉にかけての台地を一部人工的に開さくして、その流路を確保することになりました。これが江戸川で、ほぼ太日川の流路を流れて江戸湾に注いでいます。その背景には、当時整備が急がれていた水上輸送網の江戸への幹線として、船の航行の安定化をはかるという意図があったようです。台地の開さくがいつ頃からはじめられたかわかりませんが、寛永18年(1641)には通水可能な程度に竣工し、正保元年(1644)には完成したと考えられます。
いっぽう、江戸川(太日川)と中川の間を東西に走る船堀川の二之江村以東を新たに掘り割って新川が誕生しました。寛永6年(1629)のことといわれています。これにより江戸川から小名木川を経て江戸にいたる舟運路が確立しました。
これら一連の治水工事によって、東北地方から銚子を経て江戸に至る輸送路が確保され、関宿を中心にした関東の水運網が整備されました。東北地方、そして関東全域の米の江戸への大量輸送が可能になりました。