通運丸は、廃業までに40隻近くが建造されています。第一通運丸は、石川島平野造船所(東京都)で明治9年(1876)11月起工、翌10年2月の竣工で、全長72尺(約22m)、幅9尺(約2.7m)、総トン数60トン、機関は20馬力で、速力6ノット(時速約11km)でした。吃水の浅い外輪船が、水深の浅い江戸川の航行に適していました。船体は木造で、船室は上中下の3等にわかれ、床下に荷物を積みました。
この第一通運丸を購入して就航させた内国通運会社は、江戸の町飛脚5軒が集まって明治5年に設立した陸運元会社の発展したものです。陸運元会社は、群馬県の高崎河岸で和船による運送をしていました。明治8年に内国通運会社と改称、政府の庇護のもとに全国の貨物輸送を一手に扱うまでになり、舟運にも力を入れていました。すなわち現在の日本通運株式会社の前身です。
明治10年2月24日には早速試運転がおこなわれました。このときは、両国から本所竪川を通って中川に入り、新川、江戸川をのぼって利根川の大越(埼玉県加須市)までを往復したといいます。また、水路調査を実施して、浅瀬の浚渫をおこなっています。こうして、5月1日、ついに営業を開始するにいたりました。その後、第二、第三、第四と相次いで就航し、新たなコースをつぎつぎに開発しています。
なお、第一通運丸の船体は明治23年頃に棄却され、機関のみを利用して2代目(2世)第一通運丸が建造されたといわれています。「通運丸の構造は、その中央が機関部で、大きな蒸気エンジンが据えつけてあった。船は発動機船とちがってあまり振動もなく、乗り心地はきわめてよかった。客室は上等と並等にわかれ、上等は舳の方にあり、並等は艫の方にあった。並等と機関部の間にせまい部屋があったが、…その部屋には駄菓子やラムネなどをならべ、客の求めによって弁当も調達した。弁当といっても汽車弁のような折詰ではなく、昔、一膳めし屋などでよく使った木製の仕切りのある箱に飯を盛り、おかずは主に佃煮類を添えたものである」(『江戸川区史』第参巻 より)。