明治10年代は、利根川筋の船主たちも競って蒸気船を購入し、営業をはじめています。下利根川の銚港丸、信義丸、銚浦丸、西北浦の豊通丸、高浜丸、開運丸、大吉丸などが、貨客の争奪戦を繰り広げました。しかし、その乱立が共倒れの危機を招きかねない状態となり、明治14年12月に合同で銚子汽船株式会社を設立し、翌年1月に営業を開始しています。これが外輪の蒸気船第一銚子丸で、銚子―木下間を隔日で運航しました。15年4月には第二銚子丸を就航させ、銚子―木下間を毎日運航しました。
しかし、すでに内国通運では、銚子―東京間および霞ヶ浦の高浜河岸―銚子間の航路をもっていましたので、自然これと競合することになりました。銚港丸をもつ木下の船問屋らと同盟を結んだ銚子汽船株式会社は、内国通運と交渉し、銚子汽船を主とする同盟側は東葛飾郡三堀まで航路を延長して、そこから下流を受持ち、内国通運は江戸川の東京と松戸・野田間を受け持つことになりました。明治16年8月のことでした。このとき、関宿経由よりも廉価で早いということから、三堀―野田間は陸運に頼ることになりましたが、悪路のため困難をきわめたといいます。そのとき、東京の航運会社のいろは丸が関宿経由の直行便を就航させたために、ふたたびもとの混戦状態に戻ってしまいました。
こうした状態は、共倒れを再発することになり、やがていろは丸も姿を消し、小さな船会社も整理統合されて、結局は内国通運と銚子汽船のふたつの大手だけが残りました。