利根運河

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 問題は、陸路を通る三堀―野田間が、思いのほかの悪路だったことです。三堀(千葉県野田市)は利根川と鬼怒川の合流点で、川底も深く、船が横付けするのに便利でした。しかし、これより上流には中洲が多く、ことに関宿から野田にかけては大きな洲ができて、大型船の航行に支障をきたすようになりました。
 そこで、陸路にかわる運河を望む声が高まり、まず茨城県令(翌年、県知事と改称)人見寧が運河の開さくは茨城県に多大の利益をもたらすとして、政府にその必要性を力説し、運河閧さく運動の先頭にたちました。これに対し、軽便鉄道の計画をもち、関宿の船問屋の衰退を心配する千葉県令は、躊躇せざるをえませんでした。しかし、明治18年(1885)6月、両者は合意し、翌19年7月、千葉県、茨城県、東京府の知事の連名で政府に運河開さくを願い出ました。
 ところが、あまりに莫大な費用を要することや、鉄道の整備を急務と考えていた政府は、これに応じませんでした。茨城県知事人見寧は、有志を募って民間の利根運河会社を設立し、みずから社長となって運河開さくに奔走しました。明治21年7月に開さく式にこぎつけ、23年6月18日、ついに竣工式を迎えました。現在の柏市船戸から流山市深井新田までの約8.5kmで、オランダ人技師ムルデルの設計によるものです。銚子―東京間は、約48km短縮されています。
 もっとも、完成したばかりの運河にいきなり大型船を航行させることはできず、当面は運河を艀で航行し、利根川は銚子丸、江戸川は通運丸が運送にあたりました。通運丸や銚子丸の利根運河航行が可能になったのは明治28年(1895)のことでした。銚子汽船では第三銚子丸を新造して、銚子―東京直行便を就航させ、通運丸も銚子までの直行便を運航させています。そして、しばらくの間、両社による安定した運送が続きました。